冬菜かしこの「のんびり ゆっくり 親孝行」の日々

70歳代後半の親と50歳代前半の娘のゆるい介護のような親孝行の記録です

【エッセイ】ヘルパーさんを依頼

介護ヘルパーさんを依頼することにした。

今までも来てほしい気持ちはあれど、

ケアマネージャーからあまり良い返事をもらえなかったのだ。

 

だが、毎週金曜日に実家に通っているが、

どうしても困っていたのが、ゴミ出し問題。

朝8時までに出す、となると、

泊りじゃないと無理なのだ。

そうかと言って、毎回毎回、お泊りすると、

自宅を留守にしてしまい、

二人娘が大喧嘩したり、ゲーム三昧したり、

あまり良い事にはならない。

家の中の秩序が乱される恐れがおおいにあり。

どうしよう?

と困っていたのである。

 

そこで、ケアマネージャーさんに相談して、

介護ヘルパーさんを依頼することにした。

もう両親は老々介護がかなり難しいので、

そこをようやく理解してくれたらい。

 

実家の裏のお家のおじいちゃんが、

ヘルパーさんを依頼しているのを知っていたので、

母も大いに乗り気で、

出来ることならきてほしい、

となったのだ。

 

本来、他人に家の中に入られることを嫌う父と母。

父は気を遣う、母はじろじろ見られそう、と言うのが理由。

でも、認知症の父はもうあまり難しいことは言わないし、

母も、ここまで来たら、しのごの言っていられない、

と思ったようだ。

とにかく、身内でなんとかならないのなら、

誰かに助けてもらわなきゃ、となりました。

 

来てもらうのは、

火曜日と木曜日の朝9時前後、1時間。

火曜日は、父がショートステイに行く日で、

行かない、と駄々をこねると疲れる母が、

この日がいいと言った。

あとの1日は、本当はゴミ出しの金曜日にしたかったのだが、

介護ヘルパーさんが、持って帰ってくれる(可燃ごみに限る)そうで、

それならば、木曜日でもいいとした。

 

初めての介護ヘルパーさん。

どうなることやら、

心配しながら、ことのなりゆきを見ていたが、

父がヘルパーさんに失礼なことをして、

もう来ない!と叱られていないか。

母が気を使いすぎて、

ぐったり疲れ果てていないか。

ヘルパーさんが来始めてからも、

私の心配は尽きなかった。

 

もし介護ヘルパーさんが来てくれなくなったら、

どうすればいいんだろう。

ずっと、ずっと、

ヘルパーさんが軌道に乗るまで、

安心はできないと思った。

 

けれど。

そんな心配は稀有に終わった。

介護ヘルパーさんが来て、2週間がたったころ、

母が言った。

「ヘルパーさんが来てくれて、助かる」と。

 

ゴミ出しも心配しなくていい。

父の事を愚痴る相手が出来た。

あちこちの、掃除が行き届かないところを、

地道に少しずつ、きれいにしてくれる。

思った以上の、その働きぶりに、

母は安堵の気持ちを隠し切れないでいた。

 

良かったね、お母さん。

ようやく私も安心して、

父と母の事をまかせる気持ちが生まれてきた。

私だけじゃない。

ヘルパーさんがいる。

そう思うだけで、

私も重い重い荷物が、

少し軽くなった気がした。

 

介護ヘルパーさんが来始めてから、

2週間が経ったころ、

実家に行くと母がうれしそうに話してくれた。

 

「この床、見て。

ヘルパーさんが掃除してくれたのよ。

なんだか持ってきた道具で、

きれいに、こすって、汚れをとってくれたの。

きれいになってるでしょー」

 

家族以外の人に、優しくもらって、

心がほぐれた様子の母。

顔の表情も、

声の調子も、

まとっている雰囲気も。

やわらかく、あたたかく、

見ていてこちらまでうれしくなるようだった。

 

ヘルパーさん、依頼して良かった。

そう実感せずにはいられなかった。

 

いままで。

介護ヘルパー制度があることは、

何となく知ってはいた。

けれど、それとなくケアマネージャーさんに聞いても、

あまりはっきりとは、先に勧めてはくれない。

後でわかったことだが、

ヘルパーさんのなり手が少なく、

なかなか、介護ヘルパーさんをまわしていけないのが、

現状のようだった。

 

介護ヘルパーさんに来てほしい。

そう思っている人は多いけれど。

実際問題として、

人で不足のために、

希望者にすぐ配置できるものではないようだった。

どうしても、どうしても、

がんばっても、がんばっても、

必要だと判断されなければ、

来てはもらえないようだった。

難しい問題。

 

でも考えてみたら、

それはそうかもしれない。

しんどい仕事が敬遠される昨今。

とびぬけた高給でもない限り、

しんどい仕事を選ぶ人は少ないのでしょう。

そうかといって、介護の仕事が高給になることもまた、

難しいのでしょう。

 

育児も介護も。

人を相手にする仕事はしんどくて、

そしてあまり高給には出来なくて、

結果としてなかなか人が集まらない。

難しい問題。

本当はそういう現場にこそ、

手を差し伸べなくてはいけないのに。

こうした問題を考えるとやはり、

胸が痛くなる。

 

けれど。

うつむいてばかりはいられない。

有難いことに、実家にはヘルパーさんが来てくれたのだ。

そのことを大切に考えていきたい。

 

「来ていただいて、ありがとうございます」

まずはその気持ちを持って、

一緒に介護を乗り切っていく、

力強いパートナーとして、

接していけたらと思っている。

 

来てくれるのが、当たり前ではない。

有難い事なのだと、胸に刻んで。

 

 

【エッセイ】父、コロナ後遺症から完全復活

疫病に感染して、その後遺症で、

うんうん、うなっていたことは、

さきのブログで書いた通りです。

それで、ワクチンを打っていなかったので、

後遺症のしんどさも、致し方ないと思っていたのですが。

ここ最近の父の様子を見る限り、

どうやら完全復活したようでした。

 

では、どのようにして乗り切っていったのか。

もしも参考になればと思いまして、

書いていこうと思います。

 

まず、父が疫病にかかり、

病院での5日間の入院を終え、

自宅に帰ってからの事です。

顔は黒ずんで、

特に目の周りが、何か塗ったのかと思うほどの黒ずみで、

正直、わが父ながら怖い感じでした。

 

疫病に感染した直後、一時、危篤状態になり、

医師からもう延命治療しかない、

とまで言われていました。

だから、一命はとりとめたものの、

もうあまり期待はせずに、

出来ることをやっていこうと思いました。

 

退院して、自宅に戻ってからの父は、

ほとんどものを食べず、

ほとんど言葉を発せず、

こちらが言ったこともなかなか理解できず、

ぼんやりとした様子でした。

ただひたすら自室で布団にくるまり眠るだけ。

あまりに何も口にしないので、

かかりつけ医の所に行っても、

本人が点滴を拒否するので、それも出来ず。

結局何もしないで帰宅したりしました。

 

また、後遺症の影響が強く出たのは、

トイレでした。

それまでは一人で用足しが出来ていたのに、

それが難しくなりました。

トイレの場所が分からず、

家の中をうろうろしていました。

そして途中であきらめて、

吐き出し窓を開けて、

縁側で用を足したらしい痕跡もありました。

敷き布団と毛布が濡れていたので、

それをきれいにふき取りました。

汚れた毛布をふきながら、

どうして、どうして、という言葉が、

頭の中にグルグル回りました。

 

ワクチンを打っていたら。

ショートステイに行っていなかったら。

ここまでには、ならなかったんじゃないか。

そんな、考えても仕方のないことが、

うっすらと頭の中を覆っているような感じでした。

 

夜間のトイレは、もう、失敗しても仕方がないと腹をくくり、

汚れたら翌朝きれいに拭こうと、

寝ることにしました。

どうせ、夜間は、一回くらいだろうと思ったのです。

そして、昼間はどうにかこうにか、

やっていこうと決めたのです。

 

けれど、昼間は。

トイレの場所を教えてあげられますが、

便器の付近の床が濡れてしまったり、

ということが多く、

それはそれで、後片付けが大変でした。

床にペット用シートや新聞紙を敷いても、

次々に汚すので、

次々に替えなくてはなりません。

だれもしてくれないトイレ仕事。

誰かがしなくてはと思うものの、

それが自分だと、

自分しかする人がいないと、

正直、心がしんどくなりました。

 

疫病の後遺症の父と、

今まさに疫病真っただ中の母と。

二人の老親を見ながら、

頼れるものは自分だけだという、

精神的に過酷な状況においやられました。

遠い昔にこなしてきた、

2歳差の二人娘の時の、

ワンオペ育児にも似た状況でした。

 

「またですか。また人のお世話をするのですか。

そして今回は、終わりが分からないのですか」

 

悲しい気持ちになりました。

それでも誰も変わってはくれません。

仕方なく、せっせ、せっせと、

トイレ掃除に励んでいました。

 

そうして、自分をだましだまし、こなしていった1週間。

もしかしたら、疫病の後遺症で、

認知症がものすごく進み、

私のことなど忘れてしまうのでは、

と思っていたのに、

まったくその兆候がなく、

なんとか踏みとどまっているようでした。

 

ずっと憂鬱な気持ちだった1週間だったのに、

終わってみれば、予想以上の効果を上げていることが分かりました。

それは、こういうことです。

 

一週間の連続した、実家での宿泊で、

まず、父は認知症の進行が止まりました。

それは、入院前の状況まで戻ったということ。

私の事も妹も兄も、そして孫の事も。

何もかもしっかりと、呼びかけるようになりました。

たまに妹と私の名前を間違えるご愛敬はあるものの、

しっかりと名前を呼んでいるのです。

これには驚きました。

 

そばにいて、母ではない誰かに、

優しい声をかけてもらうということが、

笑顔を見せてもらうということが、

こんなにも父の心に響くなんて。

予想だにしなかったことです。

どうしてこんなに効果があるのか。

分かりません。

ただ一つ言えるのは、

嬉しい気持ちは、あらゆるものを、

前進させていくのだろうということ。

 

先日。

母と私が台所で「父に老人ホームに入ってもらった方がいいのか?」

と言う話をしていて、

どうやらそれが聞こえたらしい父が、

私と二人の時に聞いてきました。

 

「わしは、はじかれるんか?(よそに行かなくてはいけないのか?)」

そう言って、心配そうに私の顔を見てきたのです。

「はじかれないよ。

トイレがちゃんとできたら、ここにいられるよ」

そう言って、父を安心させて、

その時は話を終わらせたのです。

 

それからと言うもの。

父のトイレ活動はしっかりした様子でした。

要介護3、認知症が進行している父なのに、

分かっていないだろうと思いながら言った言葉なのに。

父はなぜかトイレを失敗しなくなりました。

もちろん、便器付近にこぼすことはあります。

でも、先日のようにトイレ以外の場所で用を足すことはなくなりました。

 

何を話してもすぐに忘れる、認知症の進行している父なのです。

母が買い物に行っても、

4回も5回も時にそれ以上も、

何度も同じことを聞いてくる父なのです。

それなのに。

トイレをちゃんとしてほしい。

そう一回言っただけなのに。

きちんと約束したかのように、

トイレをするようになったのです。

 

父は、生きているのです。

 

色々なことが出来なくなり、

出来なくなったことを自覚して、

少々悲しんではいるものの。

毎日、毎日、懸命に、

父なりに、生きているのです。

 

そう思うと、もう何も、

後ろ向きなことは考えられなくなります。

生きていきたい人を、ただ、応援する。

それだけなんです。

 

もちろん、周りの人が限界を迎えたなら、

違う形での父への支援になります。

けれど、それまでは、

生かしてあげたいのです。

いえ。

生きていてほしいのです。

 

きれいごとは、あまり、すきじゃない。

そんなのは、机上の空論だと、

いつもの理屈詰めの私なら、

そういうでしょう。

コスパに合わない」と。

 

それでも、いいんです。

コスパに合わない。

上等です。

人生には、そういうものがあってもいいんです。

だって、

人生って、失敗するものだから。

 

失敗して、立ち上がって、

そうして、たまには、ちょっと成功して。

嬉しくなって。

舞い上がって、

また、失敗して。

 

七転び、八起き。

起き上がりこぼしのように。

ぐわん、ぐわんと、揺られながら、

それでもまた起きて、

失敗したねと、

ぐわははっと笑いながら、

そうして生きていくのです。

 

人生は面白いと、

母と二人で顔を見合わせて、

笑い合いながら。

 

なんだか、ポエムのようになりましたが、

たまにはこういうのもありで。

 

明日も素敵な一日になりますように☆

【エッセイ】母の間違いに、ため息

母方の祖母が、100歳で大往生したのは、

ひと月ほど前の事。

そして、49日法要は、

母と私の家族とで、行く約束をしていた。

 

葬儀の時に、公共交通機関で、

母と私が行った時に、

ものすごく大変だったので、

今回は主人に頼んで、

車で送迎してもらうことにしていたのだ。

 

ところが。

予定していた前日に、念のためにと母に電話すると、

「49日法要は今日でしょ」

と言うではないか。

しっかりとした、きっぱりとした口調で言い切る母。

もう、私達一家が来ることを待っていて、

父のお世話のために、妹にも来てもらっているとのこと。

 

そんなに自信満々に言われたなら、

私の方が勘違いしていたのかと不安になった。

そこで、法要を取り仕切っているおばさん(祖母のお嫁さん)

に電話してみることにした。

 

自宅電話にかけると、

留守番電話サービスになっていた。

今回は自宅での法要だと記憶していたけれど、

もしかしたら、葬祭ホールでするのだったのか?

だからもう、出かけていて、留守番電話になっているのか?

不安があとから、あとから、出てくる。

 

再度母に電話して、おばさんの携帯電話番号を聞いて、

再挑戦してかけてみた。

するとすぐに電話に出てくれて、

「49日法要は明日ですよ」

と確認がとれた。

安堵。

体の力が抜けた。

 

折り返し、実家の母に電話して、

事の真相を話すと、

「ああ、そうだった?今日だと思っていたんだけど」

と頼りない返事が返ってきた。

本当はちょっと強く注意しようかと思ったのだが、

やめておいた。

おそらく母もショックを受けたのだと思うので。

 

しっかり者の自分のはずが、

とんだ間違いをしたのだと、

もしかしたら、自信喪失しているかもしれないと、

そう思ったのだ。

 

電話の様子にあせった主人が、

母の間違いだと気付いた時、

いらだちを覚えている様子がうかがえた。

それはそうだ。

明日のはずの法要が、今日かもしれないのだから。

誰だって、怒るだろう。

 

「もし今日なら、法要は行かないから!」

少しとげのある言葉で、主人は言ったのだ。

そして、法要はやはり明日で正解だと言うと、

主人は少々安堵したものの、

焦らされたことに対して、

面白くない様子を見せていたのだ。

 

そして。

夜に主人が言った。

「もう一度、あなたのお母さんに電話して、確認した方がいい」

その言葉に従って、

母に電話して確認して、

思わず少し注意してしまった。

「どうして、間違えたの?

カレンダーには書いていなかったの?」と。

 

母は、カレンダーには書いていなかったのだと言った。

そして、「(おばさんから)電話があった時に、法要は4日、って言っていたから。

でもそれは水曜日だから違うだろうと思って。

8日、と聞き間違えたのだと思って」

と、勘違いした内容を教えてくれた。

 

耳が悪くなっているのかもしれません。

だから、4日、だなどと聞こえたのでしょう。

そしてひとりで勝手に、8日と聞き間違えたのだろう、

と誤った想像してしまい、

結果、今日が法要との勘違いが出来てしまったと、いうことなのだろう。

 

もう、何も言えなかった。

おそらく、母も認知症が始まりつつあるのだ。

それは、仕方のない事なのかもしれない。

もう、79歳のおばあちゃんなのだから。

そして、80歳の認知症、要介護3の父の介護を、

たった一人でこなしているのだから。

もう、限界なのは当然だ。

 

母は先日、兄に言われたそうだ。

「大変なら、お母さんも、グループホームに入ってもいいよ」と。

安堵とも、不快とも、悲しみとも、とれるような、

でもそれのどれでもないような、

良く分からない声色で、母がぽつりと教えてくれた。

 

グループホームに入る。

それは、実家を離れる、ということを意味するの。

住み慣れた家、

子供や孫が遊びに来る家を離れ、

たったひとりで他人様の中に入り、生活するということ。

今までのように気楽に、

長い時間一緒にいることは出来ないということ。

大切な、大好きな人たちとの交流を、

手放さなくてはならないということ。

 

それがどんなに母にとって、悲しい事なのか。

おそらく、30年以上実家を離れている兄には、

分からないのだろう。

今の母を支えているものが、

近所のおばさん仲間だということも、

分かってはいないのだろう。

そして、グループホームでの生活は、

とてつもなく寂しく、

毎日家に帰りたいと切望するものだということも、

分かってはいないのだろう。

 

母が、大好きなのだ。

父も、大好きなのだ。

この大事な人たちを、まだ、失いたくはないのだ。

私は、わがままなのだろうか?

もう、80歳近い人たちは、

無理なのだろうか?

 

でも。

もしも、私が母の立場なら。

ずっと家にいたいのだ。

長い期間暮らしてきた、

思い出深い家で、

過ごしていたいのだ。

 

老いるとは、切ない。

それでも、あきらめたくはない。

私はそう思っているのだ。

 

 

 

 

【エッセイ】玄関の造花

先日の実家帰省の際、

造花を買ってきて、玄関に置いてみた。

母の好きな紫の花を中心にして、薄いピンクやオフホワイトのトルコ桔梗を

7本ほど花瓶に入れてみたのだ。

最初は5本ほど買ってきたものの、

スカスカ感が気になったので、2本買い足して7本に。

見栄えも良くなり、なかなかの華やかさだと、

自分では良い買い物をしたと思っている。

 

もともと、生け花ボランティアで頂いた生花や、

自宅の庭のバラなどを、

実家の玄関にちょくちょく飾っていたのだ。

お花が好きな母はいつも、とてもうれしそうにしていたもので、

私自身も出来るだけ持ってきてあげるようにしていた。

 

家の中にお花を飾る。

それだけでなんだか、

気持ちにも余裕が出来て、

いい効果があるのではないかとも思っていた。

実際、私がお花を持って行くようになってから、

母も自分で庭の花を摘んで、

そっと飾ったりしていた。

庭に直植えしている何気ない花や、

母の日にプレゼントして大きくなったバラや、

その時々によさそうだと思ったものを、

玄関に生け始めるようになったのだ。

 

そして、デイサービスの職員さんが父を迎えに来た際、

「玄関のお花が素敵」

だとも言ってくれるもので、

母も私もすっかり、

玄関にお花を飾るのを楽しみにしていた。

 

けれど、父と母がともにコロナにかかり、後遺症に苦しみ始めてから、

状況は一変しました。

家の中のお皿もお部屋も、

母が手入れが出来なくなった。

それまでも難しい局面はあったものの、

全く出来ないということはなく、

少しは出来ていた。

ところが今回は「ほぼできない状態」で、

私がしなければ、どんどん、

あらゆるものが汚れていく状態。

「これは必要最小限しかしてはだめだな」

と判断し、生活の見直しを計った。

 

そこで考え方を変えたのが、

「玄関の造花」。

 

重たい花瓶の水を替えるのは、

今の母には出来ない。

花がくさっても、

その花を捨てることすらできずに、

悪臭がただようにまかせるようになってしまう。

花瓶が汚れ、カビが生え、

しまいには花瓶を捨てるようになっていくのだ。

そんなことを繰り返しても、いいことにはならない。

かと言って、花好きな母の気持ちを思うと、

何とかしてあげたいと思った。

 

別件で訪れた実家の近所の100均のお店。

猫の糞防止の黒いとげとげシートを買おうと思っていただけなのに、

そのすぐそばにある造花が、

ことのほかたくさんあり、華やかで、かわいくて、

気になってしまった。

1本100円。5本で500円。

普通に生花を買っても、そのくらいはかかる。

そして、生花はせいぜい2週間ほどですが、

造花はかなり長期間にわたって、

華やかさを演出してくれる。

 

1本を手に取り、見た目を確認する。

上手に作られている。

3本をまとめて、花束っぽくしてみる。

普通にきれいな花束っぽい。

5本を1まとめにしてみる。

十分に花束として見られる品質。

 

決めた。

これ、買おう!5本買おう!

そうして、余り迷うことなく買って帰り、玄関の、

母のお気に入りの花瓶に入れて、飾ってみた。

この花瓶は重たいので、

生花を入れた後、水を入れたら、

とてもじゃないけれど、

母は水替えなど出来ない。

だから使うタイミングがなく、

宝の持ち腐れ状態だったのだ。

それが。

いまや。

造花を彩る大切な花瓶として、

その役割を全うしている。

うれしい。

 

生け花のボランティアで生花を生けていると、

どうしてもそれがいいと、

思ってしまう自分がいた。

お花は生きていてこそ。

そんな風に思っている自分がいた。

けれど、考えてみたら。

そんなに、毎日毎日、花瓶のお花を変えられる、

時間的にも気持ち的にも、

余裕のある人ばかりではない。

ましてや、79歳の母にとって、

花瓶の水替えは結構な手間と力のいる仕事。

特にコロナの後遺症のある身としては、

なかなかに難しいもの。

 

そうした事情を加味するならば、

「造花でいいですよ」

と提案してみたかった。

思いのほか母は造花を喜んでくれたので、

まずは良かったなと思った。

 

後日。

生け花ボランティアの師範の先生にお話したら、

「私もちょっと高級な造花を、少し買って、飾っているの、ほほほ」

と笑って教えてくれた。

なあーんだ。

肩の力が抜けた。

それで、いいのだ。

いつもいつも完璧でなくても、

年齢や状況や環境に応じて、

自分の生活を彩っていけば、

それでいいのだ。

安心した。

 

考えようによっては。

お部屋のカーテンを、花柄のカーテンにする人は、

「お花のデザインが素敵。テンション上がる」

となっているわけで。

造花も同じ効果だと考えれば、

それほど窮屈に考えなくてもいいのかもしれないね。

 

要は、今の自分に合ったやり方で、

お花と付き合っていけばいいというもの。

もう少し柔軟な発想を持って、

毎日をやわらかく過ごしていきたいなと思う。

 

ちなみに母に、

「次はバラの造花を買ってくるからね」

と言うと、

「そんなに無駄遣いしなくてよろしい!」

とたしなめられた。

でも、きっと。

ひと月か、ふた月か、

今の造花に飽きたころ、

私はまた新しいものを買ってきて、

玄関に生けるだろう。

 

母の喜ぶ顔が見たいから。

 

【エッセイ】くまちゃん椅子とサランラップの芯

先日の実家に帰省した際のことである。

 

泊りがけなので、ついでに、

家の中の不要物を捨ててしまおうと、

ゴミ袋を手に、家じゅうを見て回っていた。

 

床に落ちたティッシュやら、

インクのでないサインペンやら、

お菓子のあき袋やら。

なんだかんだで、

色々とゴミらしきものを拾い集めていった。

 

普段から、きちんとごみを廃棄しておけば、

こんな苦労はしないのにと、

誰に言うともなく心の中でつぶやきながら。

それが出来ないのが、

老々介護なのだなと、

ある種のあきらめにも似た気持ちで、

せっせとごみ集めに精を出した。

 

気が付けば2つくらいのごみ袋が出来上がり、

勢いがついたついでに、

もう少し集めていこうと張り切っていった。

そこで目についたものは、

脱衣所に置いてある、プラスティックの椅子。

 

 

うちの二人娘が実家に泊まりに来た時に、

机が少し高いからと、

100均で買った安いクマちゃんの椅子。

多分、風呂場用なのだろう。

簡素な作りで、装飾も何もない。

今はもう色あせて、元の茶色が分からないくらい

古くなってしまった椅子。

 

速攻でゴミ袋に入れようとして、

ふと、「一応、聞いておくか」

と母に捨ててもいいか聞いてみると、

「それ、使うから、置いておいて」

とのこと。

「台所の高いもの摂る時の台にしてるんよ」

とのこと。

ああ、そうなんですね。

うーん。

ホントに?

使っているところ、見たことないけどな。

 

そう思いつつ、仕方なく元に戻した。

母が、そういうものだから。

家主の意見を尊重するのは、

致し方のないこと。

それが、私には不要に見えたとしても。

母がそういうならば、多分、

「残す」

が正解なのだろう。

 

ひとまず、くまちゃん椅子はあきらめて、

次に目を付けたのは、

今はもうあまり使わない、

うちの二人娘が幼児期に使っていた、

プラスティックの茶碗とランチプレートコップ。

それぞれ、2組ずつ。

 

全く使っていないわけでもないので、

ちょっと悩ましいなと思い、

まずは同じ場所に置いている、

サランラップの芯2本を、

ゴミ袋に入れることにした。

さすがにこれは、

母に聞くまでもないと思った。

何と言っても、サランラップの芯、なのだから。

迷うことなく、ゴミと認定させていただいた。

 

 

そして、2階に上がり、

物が溜まっている廊下に行くと、

あちこちに、不要だと思われるものが

積み上げられていた。

そして、なぜかその中に、

またもや、サランラップの芯があった。

また?

なんで?

 

 

そう思っていると、

また別の所にも、

サランラップの芯が出てきた。

また、また?

なんで、なんで?

 

 

そうして、やっと気が付いた。

サランラップの芯がおいてあるのは、

全て子供用品の中。

つまり、子供の食器や、子供のおもちゃの中に、

置いてあるということ。

 

これは、たまたまここに置いてあるのではなくて、

わざわざ、ここに置いてある、

もっと言えば、ここに集めている、

と言うことなのだ。

 

きっと母は、こう思って集めたのだろう。

「孫が来た時のために、工作に使える、

サランラップの芯を集めて置いてあげよう」と。

 

このことに気づいたからと言って、

母に確認はとってはいない。

それはめんどくさいとかではなくて、

きっと、正解なのだと思うから。

いつも、いつも、

孫の事を思ってくれている、

優しい母だから、

そういう考えをするだろうと、

確信に近いものを感じるから。

 

なにもかもを合理的に、

ぶった切っていくやり方は、

たぶん、母には向かないのだろう。

ひとつ、ひとつ、丁寧に、

向き合っていきたいのだろう。

「これ、捨ててもいい?」

と聞いても、なかなか未練が断ちきれないのが、

母の優柔不断な所でもあり、

情が深いところでもあるのだ。

 

良く言えば、物を大事にする。

悪く言えば、物をため込む。

どんなことも、捉え方次第で、

良くも悪くもなるのだろう。

でも母の優しさをそのまま持っていてもらうには、

その両面を抱えてあげることが

大切なことのように思うのだ。

 

いつだったか。

家の中のものを整理していた時のこと。

それは私や兄が小学生の時、

毎年飾っていた、電飾付きのクリスマスツリー。

昔のものなので、今のように大きいものではなくて、

おそらく50CMほどの、

小さなクリスマスツリー。

 

もう使わないだろうからと、

廃棄しようと私が言った時、

母は全力で言ったのだ。

「これは、だめ!!」

 

いつもは穏やかな母なのだ。

でもこの時ばかりは、強い口調で、

私を制止することを口にした。

それはきっぱりと、

廃棄はしないという、

確固たる意志を見せた、

母にしては珍しい強い姿だった。

 

今にして思えば、

それは「幸せの象徴」だったのだろう。

もう二度と、決して戻らない、

若き日の母の楽しい、

楽しすぎる思い出だったのだろう。

 

それを廃棄したからと言って、

思い出がなくなるわけではない。

そうは分かっていてもなお、

それはどうしても、手放せなかったのだろう。

今ならば母の気持ちが、

少し分かる気がする。

二人の娘を持つ母となった私ならば、

少しだけ、共感できるところがあるのだ。

 

母の集めたサランラップの芯をそのままにして、

ごみ集めは終了した。

そして、ふと、脱衣所の横を通った時、

思った。

 

くまちゃんの椅子。

 

もしかしたら、もう、使っていないのかもしれない、と。

踏み台にしているというのは、単なる後付けの理由かもしれない、と。

本当は、二人の孫の思い出の品を残しておきたいのかもしれない、と。

 

今となっては、もう、真実がどれかなど、

どうでもいいなと思うのだ。

使い勝手がいいから、椅子を置いているのか。

思い出の品だから、捨てたくないのか。

 

どちらにせよ、母がそれを残したいのなら、

そうしてあげるだけなのだ。

それが正しいことだと思うのである。

 

いつだって、人の心は分からない。

でもそれでいいのだ。

だからこそ、人付き合いは、面白いのだ。

友達であれ、

親子であれ。

楽しいものなのだ。

 

【エッセイ】介護の分担の難しさ

先日からコロナの後遺症に苦しむ実家に、

えっちらおっちら通っている。

通い始めて3週間。

今日までの経緯はと言うと、こんな感じ。

 

最初の一週間は、連続して泊まり込んで、

動けない父と母のお世話に明け暮れる。

慣れない実家暮らし。

動けない両親のお世話。

掃除、洗濯、買い物、食器洗い。

 

さすがに、だんだん体が異変を感じたので、

一週間が限界だと判断し、

「帰ってきてー」の娘達からの電話もあったので、

一旦帰宅することにした。

翌日の土曜日には、兄夫婦が帰省するだろう、とのことだったので、

それを頼みの綱にして、あとは両親にまかせた。

 

金曜日に帰宅。

自宅では泥のように眠りった。

眠りたいとか、眠りたくないとかではなく、

「眠らないといけない」

と体が訴えているのが分かった。

これはちょっと平常ではない。

自分の健康の危機を感じ、

一旦眠りたいだけ眠ることにして、

一週間の疲れをとった。

 

しかし。

寝ても寝ても疲れは取れない。

そして。

自宅での家事と、小学生の育児は容赦なくやってくる。

だからじっとしているわけにはいかない。

我が家には、専業主婦は私しかいないのだから。

 

けれど、私が疲れているといって、

おとなしくじっとしている娘達ではない。

ことあるごとに、やんややんやの兄弟げんか。

反抗期なんだろうけど、

今のタイミングで、その喧嘩する?

というほど、自由人な二人の娘達。

あーあー。

仕方ないと思いつつ、自分の体をひきずりつつ、

なんとかやっていった。

 

ところが翌日に、

念のため、実家に電話してみると、

事態は思わぬことになっていた。

交替で来るはずの兄夫婦が、用事で来れなくなったというのだ。

つまり。

頭痛でうなっている母が、

コロナの後遺症と認知症のよたよたの父を、

たった一人で介護しているとのこと。

妹はまだ疫病の後遺症らしく、

誰も頼れないようなのだ。

そして、そのむちゃぶりな老々介護を、

前日からしているとのこと。

 

「うそでしょ?」

このまま放っておいたら、両親は確実に共倒れになる。

下手をすれば、そのまま寝たきりになる可能性もある。

 

「これは、いかんっ!」

私はすぐさま、主人に事情を説明し、

日曜日の夕方にまた、実家に戻ることにした。

まだまだ体が動かない母を、

コロナ後遺症を背負った認知症の父の世話を

押し付けるわけにはいかない。

それは、あまりにも無茶すぎるのだ。

 

金曜日に一旦、自宅に帰ったばかりなのに。

ようやく、体を休めていたところなのに。

一日休んで、日曜日にはまた、実家にとんぼ返り。

 

悲しい。

悲しすぎる。

 

どうしてこうも、人と言うものは、

他人を当てにしてしまうのだろう。

私の人生なのに、兄に、なんでも頼まれ放題。

それはまるで、

「専業主婦は、家事も育児も介護も、なんでも頼める便利なサブスク」

のような扱いだ。

 

確かに現金は稼いでいないけれど、

節約をすることで、私は自由な時間を作り出しているのだ。

専業主婦として自由な時間と気持ちの余裕を確保して、

家族みんなの、

健康管理をしたり、食事での栄養管理をしたり、

愚痴を聞いて、ストレス軽減してあげたり、

毎日を元気に過ごせるようにしているのだ。

それが「専業主婦」というお仕事なのだ。

いうなれば「家族の敏腕マネージャー」なのだ。

 

しかし、実際は。

兄夫婦の態度と言えば、

ほとんど感謝の言葉もなく、

「やって当然。暇な専業主婦だから」

の態度だ。

だから時々、本当に切れそうになる。

実際、何度か、切れた。

それでも何も変わらない。

相変わらず、「仕事がある。隣の県に住んでる」

を言い訳にして、誰も来ない兄夫婦の家。

一体どう、考えているのだろう。

分からない。

ただ一つ言えるのは、「他人任せ」だということ。

 

昨年、母が入院した際、

「母のことを面倒見てよ。今後は、逃げないでよ!」

と釘をさしておいたのだ。

母が入院して、認知症の父が錯乱状態になったから、

妹と私で、ものすごく怖い中、

父の介護をしたのだ。

もう二度とこんなことは出来ないからと、

兄には念を押しておいたのだ。

 

あの時。

兄は「資格試験があるから」

と言って、全く実家の父の世話をしなかったのだ。

母が入院して家にいないので、

混乱して精神が不安定なり、

何をするか分からない雰囲気の父を、

妹と二人でお世話したのだ。

怖い中でも一週間の介護。

それでも誰も頼れず、

歯を食いしばってやるしかなかったのだ。

 

そして。

母が退院して、実家に戻り、

そのことで父も落ち着きを取り戻したところで、

兄はお世話にやってきた。

「毎週お世話するから」

そうして毎週末やってくるようになったのだ。

 

「遅いわっっっ!!!!!!!!!」

 

一番大変で怖い時に来ないで、

母が退院して家の中が落ち着いたころに、のこのこと、

「今頃来たって、そんなに大変じゃないわっ!」

そのことに切れて、私が尋常じゃないほど兄にこんこんと

お説教をしたのだ。

 

それなのに。

結局「毎週来るわ」の兄の言葉は、

「3か月の期限付き」だったのだ。

3か月が過ぎたら、なぜか兄が実家に帰省しなくなって、

母に尋ねて事情を聞いて、

ようやく、私も妹も知ったのだ。

そして妹も私も失望したのだ。

 

そして。

今回もまた。

兄夫婦は来ると言っておきながら、来なかったのだ。

一年前の時のことなどなかったかのように。

しれっと来なかった。

母の情報によると、

「マンションの契約があるから」とのこと。

どうしても外せなかったそうだ。

 

しかし。

もしも兄夫婦が二人でコロナになっていたら、

契約はおそらく延期だった。

もしくは、どちらかがコロナになっていたら、

コロナじゃない人が、一人で契約に行っていたはず。

だから、絶対に兄夫婦の両方が、

実家のお世話に来れなかったわけじゃないのだ。

確信犯。

私と妹が何とかするとふんで、

見ないふりを決め込んだ確信犯。

 

それを証拠に。

私が実家に行った時、

「○○(兄の名前)からお土産もらったんよ」

と母がなぜか、観光地の和菓子を出してくれた。

 

「マンションの契約も問題だが、

観光地に寄っていたの?

観光していたの?

私がへろへろになりながら実家でお世話している時に?」

 

全身の力が抜けて、脱力していくのが分かった。

失望と言うより、

よくもまあここまで、

人の気持ちが分からないものだと、

あきれ果ててしまった。

もちろん。

私にだって、苦手なことはあるし、

当然、聖人君子でもない。

 

でも、両親がコロナの後遺症で苦しんでいる時に、

のんきに観光とはならない。

人って、自分とは価値観で生きているのだと。

改めて、痛感した。

 

そうして結局、2週目も、

小学校の参観日あたりの2日を除いて、

また一週間ほど実家に通った。

前回ほど連続は無理なので、

一泊二日を繰り返し、

なんとか1週間やりきった。

 

さすがに2週目となると、

疲労が蓄積されているので、連泊は無理だ。

そして、なにより、

主人の負担が大きいのと、

二人娘の寂しさが大きすぎるので、

ちょこちょこと通うしかできなかったのだ。

 

それでも両親にとっては、

誰かが泊って面倒を見てくれるというのは、

安堵していたように見えた。

その様子を見ると、やはり、

少し無理をしてでも、行ってあげて良かったと

思うのだ。

 

そして3週目の今週はやっと、

木曜日から1泊2日の実家帰りで、

なんとか済ませることができた。

これからは丸々1週間をかかえることなく、

週に1、2日の訪問で、なんとかなりそうだ。

もちろん、今はまだ疲労が残っているというのもあるが、

なにより、母が少し元気になってくれたのが

大きいように思う。

 

そして今回。

ようやく兄が実家に帰省してくれた。

そして、父の老人ホーム入居の必要性を考えてくれたようだ。

それがどれほど費用が大きいのか。

おそらく兄は知らない。

私は主人の両親のことを見てきたので、

その費用の大きさが分かるのだが、

おそらく兄は楽観視しているだろう。

 

いままで、妹と私がどれほど、

「費用の掛からない介護」をしてきたのか。

老人ホームに入居しない必要性を訴えて、

「これが必要。あれが必要」

と訴えても、却下していた兄だから、

もう、私としては何とも言えない。

「だから言ったでしょう」

と言ったところで、今更、だ。

 

この先、どうなるのか。

まだ今は分からない。

でも一つ言えることは、

老人ホームの入居になるなら、

兄に頑張ってもらう、

というだけだ。

これ以上は、私は無理だ。

 

自分の胃に穴が開く前に、

兄に「バトンタッチ」です。

まずは、自分の健康が一番。

人への優しさは、

その次なのだ。

相手を責めて、しまわないために。

 

 

【エッセイ】父の疫病、その後

実家の両親が相次いでコロナにかかり、

そのつきそいをしていた妹もコロナにかかり、

隣の県在住の兄はあてにならず、

やはり、最後は私の出番とあいなった。

 

先のブログの通り、父は奇跡的に生還し、

自宅で横になり、休んでいる。

おそらく父のがうつったのであろう母は、

検査で陽性反応が出たので、

頭痛薬を飲んで、なんとかやりすごしている。

ワクチンを打ってほしいと思ってはいても、

高齢の両親はその副作用を怖がり、

打っていなかったための重症化。

仕方がないし、自己責任とはいえ、

ぐったりしている両親を見ると、

あまりにも心配だった。

 

結局、父が5日間の入院を経て退院し、

そのあとのお世話が必要になるものの、

母が、父の一日遅れで疫病の症状が出て、

なかなか実家へはいけなかった。

小学生2人の子供、会社員の主人。

そのどちらにも疫病をうつすわけにはいかず、

結局、母の症状が出てから5日目の日曜日に、

私一人が実家に行くことを決意した。

 

最初は外から買い物だけして、

との母からの要請で行ったのだが、

行ってみるとやはり、

思っていた以上のぐったりさ加減で、

とても、母一人に父のお世話を頼んで帰るわけには

いかないと判断した。

その予感があったので、お泊りセットを持参していたので、

主人にその旨を伝え、

「自宅へ帰りなさい」と言う母を振り切って、

「行って!」と主人に車での帰宅を促し、

私は一人実家に残った。

 

残って様子を見ていると、

父はなんにも食べず、

水分もなかなかとらず、

とにかくじっと眠ってばかり。

転院した病院で、看護師さんの足を蹴っ飛ばしたと聞いた時は、

あんがい元気なんだと思っていたのだが、

それは火事場のバカ力とでもいうような、

一時の力だったようだ。

 

80歳の父にとって、

疫病の後遺症は思った以上に重たくて、

視線もぼんやりし、

おしゃべりもほとんどなく、

とにかく布団でじっとしているばかりだ。

たまにトイレに立つのだが、

それがまた大変。

 

今までもおそらく、

トイレの失敗はあったのだろう。

それでも母から、そこまでの大騒ぎを聞いた覚えはない。

すこし、床が汚れた。

その程度だったように思う。

しかし。

今回の父のトイレの失敗は、

正直、しゃれにならないものだ。

 

トイレに行くたびに、微妙に手前に出すのだ。

だから、床が水たまりだ。

すぐに拭かないといけないのだが、

それがなかなか大変。

赤ちゃんの育児の時もトイレのお世話はしたが、

大人の、それも成人男性のそれは量も多く、

水分を拭きとるのも大変なのだ。

 

しかも、いつのまにかトイレに行っていったりするので、

気が抜けない。

油断したら、床にしみて、

下までしみ込んでしまうのだ。

結局、母の知人の方の知恵で、

ペットのトイレ用のシートを前面に敷き詰め、

その上に新聞紙を広げて、

対策をした。

それでも、便器の側面にたれていて、

下までしみていることもあったので、

側面もペットのトイレシートを張り付け、

なんとか形になった。

3回ほどは、試しただろうか。

ようやく、今はそれほどの水たまりが出来ずに済んでいる。

 

しかし、トイレでしてくれる分にはまだいいのだ。

時々、父は自室の吐き出し窓で、

サッシのあたりに用を足していた。

あとは、台所のごみ箱の中にも、だ。

おそらくは間に合わなかったのだろう。

黄色い水たまりができていた。

毛布が黄色くぬれたこともある。

あーあ、、、。

ため息がでそうになるが、

そんなことしている場合ではない。

気づいたら、一刻も早く対処しなければ、

どんどん、アンモニア臭がとれなくなってしまうのだ。

 

母は介護用ベットで、ぐったりしている。

父は認知症がすすんだようで、ぼんやり寝ている。

誰も助けてくれる人はいない。

頼みの綱の妹は、疫病がうつったままらしく、

手伝いを要請することは出来ないようだ。

頼れるのは、自分だけ。

腹をくくって、父のトイレの粗相の後片付けをしていた。

とにかく、1週間か、2週間か。

両親の疫病がぬけるまで。

妹が回復するまで。

誰かヘルパーさんを頼めるまで。

そう思って、やっていた。

 

「1階にいてほしい」

との母の頼みで、出来るだけ1階にいて、

そばにいてあげた。

最初の数日は、夜は母のベットの横で、

寝てあげた。

そのうち、私の疲労がたまってきたので、

父がデイサービスやショートステイに行っている時は、

近所の小規模な商業施設に気分転換に出かけたり、

2階で好きなテレビや本を読んだりして過ごした。

 

そうして、ようやく1週間がすぎたころ、

朝、自宅から電話がかかってきた。

電話をかけて来たのは長女で、

「朝寝坊した。もう学校行きたくない」

とのことだった。

そして、次女と喧嘩して、

険悪になっていると。

二人と話をし、どうも、不穏な空気なので、

これはまずい、と判断し、

「今日帰る」

と母に断ってから、自宅に帰った。

 

母は病院でもらった頭痛薬がよく効いたようで、

薬が効いているうちは大丈夫、とのことだったので、

自宅に帰る決心がついた。

翌日からは、兄か、兄嫁が来てくれるようだったので、

それをたのみにして、

一旦、自宅で娘たちのフォローをすることにした。

確かに、小4と小6の娘を、

1週間も放っておくのは申し訳なかったなと、

今更ながら、少し後悔した。

 

それでも、今回1週間実家に泊まったことで、

実家の両親がどのような生活をして、

どのように生きづらいのかが、

良く分かった気がした。

数日の滞在では見えてこなかった、

たとえば、網戸のやぶれや窓の汚れ、

トイレの失敗の後処理、

ごみ出しの大変さなど、

気づくことができた。

やはり、実体験による気づきは大きいと思った。

 

今後こんなに長期に寝泊まりすることはないかもしれないが、

だからこそ、今回のことを覚えておいて、

今後に生かしていきたいと思う。

将来の快適な老人ホーム生活よりも、

実家で生きている今の生活が、

何よりも大切だなと感じている。

人の気持ちによりそうこと。

忘れないようにしたいと思う。