冬菜かしこの「のんびり ゆっくり 親孝行」の日々

70歳代後半の親と50歳代前半の娘のゆるい介護のような親孝行の記録です

【エッセイ】実家のリフォーム

実家のリフォームが始まってから、

十日ほどが経った。

おととい、いつもの実家帰省が出来なかったので、

今日、確認を兼ねて行ってみた。

 

簡素に低価格でしてもらう、

と聞いていたので、

どのようになったのかと心配していた。

しかし実際見て見ると、

とてもしっかりと改装されたいた。

 

板張りの壁と、天井は、凹凸もなくなり、キレイにクロスが張られ、

床は明るい色のフローリングになって、

吐き出し窓は、真新しい茶色のものがはめられていた。

小さい直しはまだあるものの、

部屋のイメージはすっかり出来上がり、

「こぎれいな6畳の個室」となっていた。

 

しかしここまで、こぎつけるのには、

並々ならぬ、抵抗があった。

 

もともとこの部屋は応接間であった。

けれど、父の仕事の端材が置かれ始めたのがきっかけで、

次第に物が増えていった。

そこへきて、当時飼っていた老猫が「要介護状態」になり、

どこか「介護できる部屋」が必要とのことで、

この部屋へ移ってきたのである。

何年もそこで介護をするうちに、

次第に窓を開けての換気も、

掃除機を使っての掃除も、

しなくなってしまい、

物だけがどんどんたまっていった。

そしてついには、

「ゴミ部屋」と化していった。

 

丁度そのころ長女の出産の頃とかぶっていたため、

私はなにも出来ないまま、

なりゆきを見るしかできなかった。

でも心の底では思っていた。

「おいおい。ゴミ屋敷ですやん」と。

 

出産したばかりでめまぐるしい毎日の中、

実家に気をやることなどなく、

月日は過ぎていった。

2年後に次女を出産する時、

相変わらずゴミ部屋だったのを、

「どうにかしたら?」

と言ってみたが、

まったくもって聞く耳を持ってもらえない。

「部屋が足りないわけじゃないから。

他の部屋を使えばいい」

というのが、その理由だった。

 

仕方ないかとあきらめていたが、

転機は急にやってきた。

1年前に、母が自転車で転倒して入院。

背中を骨折して、歩くのも困難な状態。

介護用ベットを居間に運んでの生活となったのが、

そのきっかけとなったのである。

 

いくら8畳の広めの部屋とはいえ、

介護用ベットを入れると、

部屋の半分はベットになってしまう。

母はそれでも「大丈夫。大丈夫」

というが、全然大丈夫ではない。

母本人が納得しても、私は納得など出来ない。

「居間の半分をベットに奪われて、

そんな生活、認めない!」

そこから、私の反撃が始まった。

 

以前から、このゴミ部屋にはへきえきしていた。

この部屋がきれいなら、

小さい二人娘がここで寝泊まりして、

ゆっくり過ごせたのだ。

そうすれば、連泊も問題なくできたはずなのだ。

 

けれど実際は、この部屋が使えないから、

実家に泊まる時はいつも、

父の部屋を借りて、寝泊まりするのである。

幼児二人を二階にはやれない。

階段があぶなすぎるのである。

そうすると残るは父の部屋。

お願いして借りるしかないのである。

 

しかし、父は超短期なのである。

機嫌がいい時はとてもいい人だが、

ちょっと機嫌が悪いと、

「ここは、わしの部屋だ」と怒ってしまう。

私たち親子は「すみません。寝かせてください」

と小さくなって借りていたのだ。

悲しい事である。

 

そういうわけで、

この機会に是が非でも「ごみ屋敷改装計画」

を実行に移したいと思い、

必死になって動いていったのである。

 

まずは、母の入院中に、

「ゴミ部屋のものを全捨てする!」

と母に宣言した。

すでに業者との話はつけておいた。

慌てた母は「私が退院するまで、だめー」

と言っていたが、聞く耳を持たなかった。

 

母の必死の抵抗で、

妹が母の命令で、最低限のものを残す段取りをした。

そして私は業者を頼んだ。

一応、母の懇願で、退院数日後、

母の立ち合いのもとでの、ゴミの運び出しとなった。

予定金額を30パーセントオーバーの6万円超。

母はため息をついたが、

私は納得していた。

何もなくなったゴミ部屋は、

まだまだ埃っぽいとはいえ、

その全貌をみせてくれたのである。

「こんなに広かったんだ」

と感動すら覚える光景であった。

 

力技でゴミを捨てたのはいいが、

問題はそれからであった。

床も天井も壁も、すんなりとはいかない荒れ模様。

案の定リフォーム見積もりは、

圧巻の「100万円」であった。

これには私もぐうの音も出ない。

しかし、ここで立ち止まるわけにはいかない。

それでは何のためのゴミ廃棄だったのか。

キレイにリフォームして住まなければ、

何の意味もないのである。

 

そこから、予算をどうするかを考えた。

母は自分がなんとかすると言ったが、

なんともならなかった。

土地持ちのくせに、金融資産がほぼないのである。

自宅以外の土地は持っているが、

売りたくないの一点張り。

高齢者によくありがちな

「土地持ち、金融資産なし」家庭なのである。

結局、兄に建て替えてもらうことになったが、

それもすんなりとはいかなかった。

 

兄の考えはこうだ。

「どうせ近い将来、父母は老人ホームに入る。

だから、実家にお金をかけても仕方がない」

のだそうだ。

実家を売る気満々である。

まあ、分からなくもない。

いつ両親が老人ホームに入るのか、

誰も分からないのである。

明日かもしれないし、

永久に入らずに終わるかもしれない。

それは誰にも分からないのである。

 

ただここで、私は言いたい。

「いつか売るからと言っても、

今、両親はここに住んでいるのである。

不便この上ない暮らしを、

年金暮らしだから、という理由で、

我慢を強いられているのである。

 

考えてみてほしい。

毎日毎日、半分ベットが占領した部屋で、

隣にゴミ部屋を見ながら、

窮屈な生活を強いられた生活が、

果たして、健康で文化的な最低限の生活、と

言えるのだろうか?」

私の答えは、NO!である。

 

とはいえ、兄はもとより、

母にもこの理屈が通らなかった。

「そのうち、売る家だから。

お金をかけても無駄なのよ」

だそうだ。

「そんなことはない!

リフォームしたら、暮らしが変わる!

生き生きと暮らせるようになるんだ!」

といくら訴えても、

母は耳を貸そうとはしなかった。

無理なのか?

私はあきらめかけた。

 

でもどうしてもあきらめきれなかった。

なので作戦を変更することにした。

「きれいにリフォームしたい!」

と正面突破するのではなく、

「ちょっとだけ、リフォームする?」

と提案したのである。

 

毎度毎度、実家に行くたびに、

リフォームの話をする。

うんざりされても、あきれられても、きらわれても。

そして予算を、当初の半分以下を目指すように説得。

もちろん、希望的観測の金額である。

最低限のものだけ直して、

安く直そうよと。

すると、だんだん、母がその気になってきた。

「知り合いの業者に頼んでみる」

と言ってくれた。

その後、「頼んできた」

と言ってくれた。

よし!あともう一押し。

 

そこで、母の悪い癖が出た。

「気が変わった」のである。

母の知り合いの業者がする予定だったのに、

待てど暮らせど、なかなか始まらない。

何か月たっても、業者は来ない。

母をせっついても、

「そのうち来るでしょう」

とのこと。

どうやら安く請け負ってもらう代わりに、

「いつ、工事してもいい」

と言ったらしい。

 

私も、待った。

業者に頼んでいるならば、

そのうちに来るだろう。

しかし、半年が過ぎても来なかった。

しびれを切らして、決心した。

別の業者を当たろう。

そして母に告げた。

「母の頼んだ業者が来ないなら、

私が別の業者を頼むから。

もう一度、業者に、いつ来るか聞いてほしい」

 

そこまで言ってようやく母は連絡をして、

「来てもらう日が決まった」

となったのである。

長い道のりであった。

実は母は、やはり大きなお金をかけてリフォームすることに、

多少の不安があったようである。

それで積極的に業者に連絡しなかったのだ。

その気持ちも分からなくもないが、

私はもうそれ以上、待つことが出来なかったのである。

 

居間に鎮座する介護用ベット。

棚が壊れて開け閉めできない洋服ダンス。

そこら中に置き散らかされている本や雑誌。

 

それらをすべて解消するためには、

是が非でもゴミ部屋の活用が急務だったのである。

しかし我が家の誰もが、

異を唱えていたリフォームであった。

唯一見方だったのは、反対も賛成もしなかった妹のみ。

仕方ないけれど、苦しい戦いであった。

 

果たして、大半のリフォームを終えた今。

両親の反応はいかに?

 

要介護3の認知症の父は、相変わらず寝てばかりいる。

けれど、今日の訪問の後の別れ際、道路際まで出てきて、

母と二人で見送りをしていた。

私たちが見えなくなるまで手を振っていたのだ。

リフォーム効果かどうかは、定かではない。

しかし、元は設計士兼大工の棟梁で、

建設会社の経営までしていた人である。

一定の刺激にはなったのではあるまいかと、

私は思っている。

 

要支援1の母はと言えば、ご機嫌な様子で、

「カーテンは節約して、ニトリで買うわ」

と浮かれている。

加えて、昨日実家に妹が来た際、

母と妹とで、私のことを絶賛したのだとか。

「これからはお姉ちゃん(私)の言うとおりにする。

お姉ちゃんのすることが一番、間違っていないわー」

だとか。

この間までの、けちょんけちょんとは、

うって変わっての態度である。

 

あまりにも、掌返しが過ぎる。

と私は憤慨した。

「どうせ、また、すぐに。

私の功績などすっかり忘れて、

けちょんけちょんに、けなすんでしょうよ!」

とふてくされた。

そんなに簡単に許すもんですか!

絶対に、絶対に、絶対に。

今までの態度を忘れることなど、

出来るものですか!

私はかたくななまでに、

自分姿勢を貫いた。

 

でもちょっと。

実はちょっと。

ふふふ、と。

にやけてしまった私なのであった。