冬菜かしこの「のんびり ゆっくり 親孝行」の日々

70歳代後半の親と50歳代前半の娘のゆるい介護のような親孝行の記録です

【エッセイ】父、疫病からの奇跡の復活

前夜の寝不足の為、寝室で横になっていた私のもとに、

一本の電話が入った。

それは、父が今日から泊っているはずの、

ショートステイ先から。

「お父さんが、疫病にかかられました。

まだ簡易検査の段階での陽性ですが、

これから病院に行って正確な検査を受けてください。

今は熱が37度以上あり、しんどそうです。

まずは、自宅に戻って頂きたいです」

とのことだ。

どうやら、自宅にいるはずの母と、

電話がつながらなくて、

私にかかってきた様子。

とにかく了承して、

実家の母に電話した。

 

ほどなく電話に出た母は、

妹との長電話をしていたそう。

ひとまず、自宅にいてくれたことに安堵した。

母に、父の疫病の陽性のことを話し、

ショートステイ先に電話するようにお願いし、

妹に手伝ってもらったらどうかと話した。

本当は私がいけばいいのだけれど、

もし私が疫病にかかり、二人娘に伝染してはいけないと思い、

妹にお願いするようにした。

母は了承して、そのまま電話を切った。

 

しばらくして、夕方頃、今度は大学病院から電話が入った。

どうやら父の具合が悪く、

救急車で緊急搬送されたとのこと。

母と妹には話をしたらしいのだが、

取り乱していて、私の所に電話してきたそうだ。

話の内容は、思いがけないものだった。

「お父さん、具合が悪く、今はベットで酸素を送って呼吸している。

高熱が続いていて、ぐったりしている」

とのことだ。

そして、

「お母さんと妹さんにはお話したのですが、

同じお話をします。

お父様は年齢も高齢ですし、この段階で、

延命治療をするかどうかを決めてください。

ただし、一度延命治療を始めたら、

お父様が苦しくなっても、装置を外すことはできません。

それをよく考えて、決めてください」

とのことだった。

 

これは、義父の時と同じだ。

義父は85歳でしたが、延命措置をした。

でも延命措置のかいなく、ほどなく他界したのだ。

そして、今、実の父親が同じことを迫られている。

母と妹が延命治療を望んでいないなら、

私も同意しようと思った。

ただ、直ちにそれを決めるには、

私はあまりに弱すぎる。

だから、医師には「兄に決めてもらって下さい」

と伝えた。

「母も妹も、そして私も、延命治療を望まないけれど、

最後は兄に聞いて、決めてください。

決断を下すのは、私には無理です」と。

医師は納得し、兄の電話番号を聞いて、話は終わった。

受話器を置いた私はまるで、

ぬけがらのように、何も考えられなくなった。

 

どうやって夕食を作ったのか。

はたして風呂には入ったのか。

デザートのぶどうを2粒食べたのは覚えているけれど、

その時どんな番組を視聴していたのか、

まるで覚えていない。

ただ、ぶどうを食べた後、フラフラとパソコンに向かい、

この「親孝行ブログ」の父親との思い出の記事を、

ひたすら読んでいたのを思い出す。

 

こんなにも、少なかったのか。

そう思った。

頑張って書いていたつもりなのに、

親孝行ブログとは、こんなにも少なかったのかと、

愕然とした。

それは、きっと。

これからも両親が長生きしてくれるだろうと、

だからまだまだブログの記事が増えるだろうからと、

高をくくっていた私の慢心が招いたのだと思った。

 

10日前に、家族で実家に行って、

主人と二人娘と母とで、

近くのショッピングセンターに買い物に出かけた。

私は父とお留守番で、

いろいろとおしゃべりをしたのだ。

皆が昼食を食べている時に寝ていた父は、

みんなが買い物に出かけた後、

私と二人の時に、一人遅れて、

昼食のちらしずしを食べたのだ。

最近は食欲が落ちていると聞いていたけれど、

孫に会ったうれしさからか、

一人前の寿司をぺろりと完食して、

私を喜ばせたのだ。

あんなに、元気だったのに、と。

食欲もあったのに、と。

 

そしてそのあと、2階にあがり、

家族写真のアルバムを開いた。

父と最後に出かけた地元のバラ園の写真を見ながら、

孫と最後に出かけてうれしそうな父を見ながら、

涙が止まらなかった。

どうして、こんなに早くにお別れになったのだろうと。

あんなに、体が丈夫なことが取り柄だったはずじゃないかと。

こんなに急にいなくなるなんて、聞いていないよと。

あまりにも大きな存在がいなくなることが怖くて、

自分が今、果たしてきちんと息をしているのかさえ分からないほど、

自分で自分が分からなった。

 

どうして。

どうして、いま。

つい最近、祖母を亡くしたばかりなのに。

続けていなくなるなんて、辛すぎるよと。

自分の事なのに、自分の事じゃないように、

何が何だかわからなくて、

ただただ、流れる涙を手で拭う事しかできなかった。

 

そのあと、次女が、「一緒に寝よう」と言ってきて、

一緒に寝室に行った。

眠れないだろうと思っていたら、

主人がやってきて、「お母さんから電話だよ」と言った。

「いよいよか」

と覚悟を決めて受話器を取ると、

母が涙声でもなく、少し疲れたようではあるけれど、

普通の様子で話し始めた。

 

「お父さん、病院を移ったんだけど。

紙おむつを履かせようとしたら、

看護師さんの足をけっとばしたんだって」

 

えっ、、、?

なに、、、?

紙おむつ、、、?

看護師さんをけっとばした、、、?

 

だれが、、、?

父が、、、?

けっとばした、、、?

 

はっ、、、?

何言ってんの、、、?

疫病で、高熱で、危篤なんですよね、、、?

 

だって、医師がさっき、危篤だから覚悟してくださいって、、、。

僕の家族だとしても、これはもう、無理だと伝えるって、、、。

国立病院においてはおけないから、転院してもらうけど、

これからどんどん弱っていくだろうって、、、。

 

えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

えっ、

えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

なんですのーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー?

これ、

なんですのよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー?

 

新手のドッキリなんですか?

私ひっかかったんですか?

最初から全部ウソだったんですか?

 

うそですやんーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

私の流した涙、

かえしてーなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

 

翌日、母から電話があり、

いまだ、病院からは、

「危篤です」

の連絡はないそう。

そればかりか、

「あんまり暴れたら、5日間の待機期間中でも、

自宅に帰ってもらいます!って、言われてるのよ」

などと言われた。

 

あばれるって。

何?

 

母いわく、

「はじめは確かに、高熱でぐったりして、

酸素を送って息をしていたけど、

点滴を打ったら、栄養が届いて、

元気になったらしいのよ」

とのことだ。

 

実家の父、80歳。

山奥の、大自然育ち。

趣味は釣り。

好きなものは、猫と、孫と、こたつ。

 

まだまだ、生命力にあふれた、

元気なおじいちゃんだ!

 

 

【エッセイ】祖母、100歳の大往生

今週の月曜日の夜。

実家の母からの電話で、祖母の訃報を知った。

ごはんが食べられなくなり、

病院に入院していることは聞いていたが、

もう少し生きてくれるものと思っていたのだが。

思いのほか早い、お別れだった。

 

先の日曜日に、母と会った時に、

「おばあちゃんが入院していて、

延命治療をするかどうか、○○ちゃん(叔母)に聞かれたんよ。

もう年も年だから、延命治療はしないことにしたんよ」

と聞かされていた。

「延命治療の話が出るということは、

そこまで体調が悪いということだろう」

と思ってはいたのだが、

そのうち、そのうち、

と思っていたので、

こんなに急にお別れすることになり、

やはり、突然すぎる、と言う気持ちになった。

 

祖母は大正12年の生まれだ。

昔は結婚が早かったので、

祖母も20歳の時に結婚した。

最初は娘、次に息子と、

子宝にも恵まれた。

夫は村一番の二枚目だったそうで、

おそらく、祖母はまんざらでもなかったのではないだろうか。

 

それでも、夫が戦争中に病気を患ってしまい、

戦後も病に臥せっていたので、働けず、

生活費は老夫婦と祖母がなんとかしないといけない状況

だったそう。

夫の病気の治療のために薬代や病院代、

お金がどんどん掛かっていった。

働き手のいない老夫婦と未亡人の家庭で、

生活はどんどん苦しくなっていったそうだ。

そうして娘が5歳のころ、

夫はあまりにも若くして亡くなってしまったそうだ。

 

祖母は3人兄弟の真ん中で、

わりと人に合わせる性格の人。

だから兄弟仲は良く、

その性格から、

姑さん夫婦からも、

「○○(祖母の夫)さんは亡くなったけど、一緒に暮らそう」

と言っていただいて、

同居することになったそうだ。

 

小さい娘と息子をかかえ、

姑さん夫婦と同居し、

勤めにも出て、田んぼもして、畑仕事もして。

本当によく働いていたそうだ。

「未亡人魂」とでもいうように、

たいした愚痴も言わず、

祖母はしっかりと地に足を付けて、

生きていったそうだ。

 

そうした祖母の様子を見ていたから、

祖母の息子(私の叔父)は、結婚する時に、

「お母さんの面倒だけみていてくれたらいいから」

とのお願いをしたそうだ。

そしてその願い通りに、専業主婦として、

家庭内のことをしっかりとしてくれたようだった。

50年近く、祖母の生活全般、

老いては介護まですべてを、

一手に引き受けてくれていた。

 

「○○ちゃん(叔母)の料理がおいしいから」

と言って、祖母はいつもニコニコしていました。

どんな家庭にも、多少のさざなみはあろうと思う。

けれど今思い出すのは、

叔母の作った料理をおいしそうに食べる祖母と、

100歳の祖母の食事の量を気にする叔母の、

お互いがお互いを思いやる姿なのだ。

祖母がこんなに長生きできたのは、

叔母の功績失くしてはないのだ。

 

祖母の訃報で、祖母宅に駆け付けた時、

祖母の生前の部屋を見せてもらった。

叔母が「棺桶に入れるものを考えている」

と言っていて、

「洋服を入れようと思うの。

でもどれも地味な服ばかりなのよ」

と教えてくれた。

 

そういえば祖母の服は、

とても地味なものが多かったように思う。

記憶の中の祖母の服は、

かすんだ薄紫や、紺色や、灰色。

決して心が浮き立つようなパステルは好まず、

落ち着いた色味ばかりだった。

それが生来の好みなのか、

戦争体験者としての気持ちを反映してなのか、

それは分からないが、

とにかく地味一辺倒だった祖母だった。

結局、かすんだ薄紫の服を、

「よく着ていたから」

と言って、叔母が選んでくれていた。

 

「◇◇ちゃん(私の名前)、早くに結婚しなくていいよ。

苦労するばっかりだからね」

祖母はよくそう言ってくれていた。

そのためかどうか、

私は40歳での結婚となった。

でも夫を連れて祖母宅を訪ねた時、

ウエディングドレスを見せると、

「いい時代に生まれていいねえ。こんなきれいな服を着れて」

とうらやましそうに笑ってくれていた。

私は祖母のように若くして結婚した人がうらやましいけれど、

祖母は祖母で、私の事をうらやましく思う。

人とは自分にないものをうらやましく思うのだと、

難しいものだなと思ったりもした。

 

今回の訃報について。

1日目は、亡くなってすぐの祖母を見に、

葬祭ホールにかけつけて、

祖母の顔を見た。

2日目は、通夜でお経を聴いて、

遺影の中の少し若い祖母の顔を見て、

いろいろと思い出した。

3日目は、葬儀で最後のお別れをし、

棺桶にお花を入れていった。

棺を閉じる前に、

用意された美しい「花束」を入れるのだが、

叔母はその役に私を指名してくれて、

私がそっと花束をたむけた。

 

これで、最後なのだと、

心に言い聞かせて。

おだやかな、目を閉じた顔を見ながら、

もう私の名前を呼んではくれないのだと、

心に言い聞かせて。

自分の中で、祖母の思い出を、

胸に閉じ込めた。

 

もう祖母との、新しい思い出は増えない。

どんなに望んでも、

あたたかいその手を握ることはできない。

にぎやかなコーヒータイムも、楽しいお喋りも、

畑に行って、一緒にとうもろこしをもいでくることも、

もう出来ないのだ。

黄色いスイカを切って、みんなで縁側でかぶりつくことも、

蚊帳をつって、なかではしゃぎながら寝ることも、

もう出来ないのだ。

もう二度と、もう二度と、

思い出が増えることはなくなってしまったのだ。

 

ああ。

もう会えないのだなあと。

そう思うと悲しいから。

またいつか、

またいつか、そっちに行った時に、

一緒に畑に行こうと、

そう思うことにしたのだ。

 

今までありがとう。

言葉にならないほどのたくさんの愛情を、

惜しみないほどのたくさんの優しさを、

ありがとう。

もう形あるお返しは出来ないから、

せめて心で感謝のことばを。

 

100歳まで長生きして良かったね。

大往生だね。

私の大好きなおばあちゃん。

ずっとずっと忘れないよ。

 

そんな風に、思っている。

 

 

 

 

 

【エッセイ】小学生の娘にとっての新盆

先日、主人の実家に帰省してきた。

義理の妹さんとは予定が合わず、

うちの家族だけの帰省となった。

義理の両親は他界していて、

今回は新盆での帰省となった。

 

コロナが流行る前、毎年毎年、

家族で帰省していたのだ。

義理の両親の体調がすぐれなかったり、

雪の降った時などは、

帰省をしない時もあったが、

大抵の場合、

大型連休とお盆とお正月には、

きちんと帰省して、

孫と触れ合ってもらっていたのだ。

 

でも今回二人娘に聞いてみると、

思った以上に、

祖父母との思い出が少なく、

少々残念に思う。

 

「おばあちゃん、お人形の、頭からやわらかい飴がでるやつ、買ってくれた」とか、

「おじいちゃん、いっつもこの椅子に座っていた」とか、

「一緒にお買い物に行った」とか。

そんな程度。

その情報量の少なさに、

軽くショックを受けて、

「他にはない?何か思い出ない?」

と聞きまくるも、あまり覚えていない様子。

 

無理もない。

コロナの流行する前は、

長女は小2、次女にいたっては幼稚園の年長さんだったのだから。

そんなにしっかりと覚えているはずもない。

仕方ないなと思いつつ、

どうしてもっと早くに結婚、出産しなかったのかと、

珍しく悔やんでみたりもした。

 

でもどうやったって、

過去には帰れないのだし、

大切なのはこれからだと、

そんなふうに思い始めた。

自分にどうしようもないことを考えても、

プラスの思考にはならないように

思えてきたのだ。

 

二人娘にとって祖父母の思い出が少ないなら、

その思い出を大切に覚えておいてあげようと思った。

二人が忘れても、私が覚えていて、

教えてあげようと思った。

そして同時に、二人がすでに忘れている思い出に関しても、

教えてあげようと思った。

どんなに祖父母が子供たちに優しくしてくれたかを、

教えてあげようと思った。

 

二人が気に入っていたサンリオのリュックはおばあちゃんが

宅配でおくってくれたものだということ。

それは次女がスーパーで手提げを忘れてみんなで大慌てしたから、

祖母が気を利かせて、

「リュックなら忘れないでしょ」と送ってくれたのだということ。

 

庭のさつきが大きくなってとても迫力があったから、

白とピンクの大きなさつきの前で、

まだ小さかった長女や次女をおじいちゃんがだっこして、

写真を撮ってほしいを言われて撮ったこと。

バケツとスコップの砂遊びセットを用意して、

私達家族の帰省を心待ちにしてくれていたこと。

老人ホームに入ってからも、

お正月に面会に行くと、二人にお年玉をくれたこと。

全部をすぐに話せるわけではないけれど、

折りに触れて、思い出したことを、

伝えていきたいと思う。

 

そしてまた、これからの日々で、

祖父母のいない家ではあるけれど、

曽祖父が建てて、祖父母が受け継いだ家を大切に守り、

時々、住まわせてもらいたいと思っている。

そうして、新しい思い出を、

この家で作っていきたいと思っているのだ。

 

長女が言った

「おばあちゃんの家、お庭が広いから好きー」

との言葉。

その気持ちを大切にしてあげたいと思うのだ。

庭も家も、昔の人が建てた、

のんびりした広々としてものだ。

今住んでいる家よりずっと、

のびのびとした間取りと敷地になっているのだ。

それが小学生の二人にとっては、

ちょっとした息抜きのようになっているような

気がするのだ。

ならばここでこれから、

祖父母はいないけれど、

家族四人で新たな思い出を刻んでいくのも、

素敵なことなのではないかと思っている。

 

私の子供の頃、

おばあちゃんの家は楽しいものだった。

畑に野菜を取りに行ったり、

家の隣の空き地で遊んだり。

宿題からも、習い事からも解放されて、

すべての時間がのんびりと過ぎていくあの日々は、

今では考えられないほどに、

ゆったりと流れていったものだ。

 

おばあちゃんと叔父夫婦、そして小2くらいからはいとこが出来て、

にぎやかなものだった。

絵本も多くあったので、それを楽しく読んでいた。

いとこたちと縁側で、とれたてのスイカをかじりついたりもしたのだ。

黄色いスイカにテンションがあがったり、

イカの種飛ばしで競ったり、

それはそれは、昭和の夏の風物詩的なことをしたものだ。

令和の今は、祖父母も田舎暮らしとはかぎらないし、

核家族の延長線上の祖父母なら、

老々介護と言った状態のところも少なくないように思う。

それでも、きっと、小学生時代の夏休みは、

子供たちの心に、

なにかわくわくしたものを残してくれるように思うのだ。

 

祖母が使っていた台所で、

大きなダイニングテーブルで食事をし、

祖父の座っていた大きな一人椅子や三人掛けソファで、

絵を描いたり本を読んだりテレビやゲームを楽しんだり。

きっと自宅では味わえない違った空気感で、

子供たちはなんともいえない「なにもない時間」を

楽しむことができるのだと思うのだ。

 

ふとした瞬間に、

「このにぎやかな小学生二人を、

義理の両親にも見せてあげたかった。

そして、二人にも、

おじいちゃん、おばあちゃんと過ごす夏休みを、

体験させてあげたかった」

と思ったりもする。

それは胸がきゅっとなり、やるせない気持ちにもなる。

それでも時間はもどらない。

今この瞬間に、夏休みを過ごしている二人娘に、

今ならではのことをさせてあげること。

それが私の母としての役目のように思えてくるのだ。

 

今は覚えていなくても、

「優しくされた記憶」は、

体のどこかに残っていて、

彼女たちの心のどこかに、

あたたかいものを与えてくれているのだと、

そんな気がする。

ならば覚えていない幼いころの記憶も、

きっと何か意味があるのだと、

そんな風に思うのだ。

 

ありがとうの気持ちをこめて。

 

 

 

【エッセイ】初盆がきた

三連休に、隣の市にある主人の実家に行ってきた。

義理の両親はすでに他界していて、

このお盆は、新盆となった。

お墓に行き、墓石に水をかけて掃除をし、

お花を生けて、

雑草を少し抜いた。

二人の娘も水かけを手伝ってくれたり、

墓石を磨いてくれたり、

小学生なりに、

お手伝いをしてくれた。

主人と私はお墓の前で両手を合わせ、

私は、義両親の冥福をお祈りした。

 

去年までのお盆のお墓参りは、

少し、形式ばった感じだった。

お先祖様に手を合わせる、

今の自分があるのが、

ご先祖様のおかげだと、

そういった一般的な考え方しか、

どうしてもできなかった。

一枚の写真でしか見たことのない、

主人のご先祖様。

どうしても、実際の身近な人のように、

感じるのが難しかったのも事実なのだ。

 

でも、今年は違う。

昨年の秋に義母が、

その半年後の春に義父が、

相次いで他界してしまったのだ。

墓石に名前が刻まれて、

ついに写真でしか会えなくなってしまったのだ。

いくら思い出を取り出してみたところで、

すでにその人たちはいないのだ。

思い出話も、もう出来ないのだ。

私の名前を呼んでもらうことも、

もう二度と出来ないのだ。

そう思うと、胸がぎゅっとなり、

全身の力が抜けていくような気になるのだ。

100パーセントの仲良しだったわけではないのに。

時には帰省がおっくうだった時だって

あったはずなのに。

今思い出すのは、義両親が帰り際に

笑顔で手を振ってくれたことばかり。

 

今年の春に義父が亡くなってから、

主人が実家の整理に毎月一回、

帰省していた。

そして6月くらいから、

家族4人そろっての帰省にして、

今月で3回目。

いつもは、少しずつ慣れてきた、

主のいない実家帰省も、

今回はなぜか力が入らず、

気が付いたら義両親の遺影の置いてある部屋に行き、

なんとはなしに、写真を見つめていた。

特に何かがあったわけではない。

ただ、なんとなく、として言えないが。

義両親に、心の中で、近づきたかったのだ。

 

初めて主人の実家に行ったのは、

結婚が決まって、その了承をいただくため。

そのあと、義父が脳梗塞で倒れて、

あわてて主人と病院に行き、

結婚式の欠席の事を知らされた。

そして結婚式に義母が来てくれて、

ドレス姿を見ていただいた。

すぐに赤ちゃんが生まれ、

乳飲み子を抱えて帰省した。

次女が生まれてからはまた大変で、

てんやわんやで帰省したもの。

 

居間のソファの上で、

義父と義母が代わる代わる赤ちゃんを膝に乗せてくれて、

かわいがってくれた。

娘が幼児になると、

砂遊びのプラバケツやスコップのセットを買っていてくれて、

とてもうれしかった。

ハンカチ、靴下、ぬいぐるみ、部屋着。

時にはサンリオのリュックを二つ、

宅配で送ってくれたこともあった。

すでに年金生活をしていた義両親。

決してぜいたくはできないだろう中で、

孫のためにいろいろと買ってくれたことに

感謝の気持ちしかない。

 

ある時、行きたいところがあるからと、

義母に頼まれていったのは、老人ホームのお祭り。

以前から、「将来老人ホームに入るのに、いいところ見つけたんよ」

と言っていた義母。

すぐに、気に入っている老人ホームの下見だなと思った。

雨の中車で行ったそこは大きい建物と広い敷地で、

優しい職員さんがいて、

バザーで売っているものも、

みなセンスがあるものばかり。

ここに来たいのだろうな、と思った。

そして、義母がそうしたいなら、

そうなればいいと思っていた。

しかし義両親は一緒に老人ホームに入ることになり、

義父が実家のそばがいいと言ったため、

別のホームに入ることになったのだ。

 

だからと言って義父になにか思うわけではない。

人生とは、自分の思うようにいくばかりではないこと、

人生50年も生きて来た私はそれが分かるし、

義母も70年以上生きてきたのだから、

きっとそれを分かっていたのだろう。

残念ですが、それが人生というものなのだと

思うのだ。

 

「私の方が長生きするよ」

と笑っていた義母。

「わしの方が長生きするよ。見ときなさい」

と自信たっぷりだった義父。

いつかその結果が分かるのだろうと、

ぼんやり思っていた私は、

そのどちらも、

あたるようで、あたらないようで、

不思議な気持ちでいたのだが。

結局は、義父の言う通り、

義父の方が長生きした。

ただし、半年間だけだった。

まるで義母をきちんと見送って、

自分の役目を果たしてから、

いきたかったかのように、

義父は義母の亡き後ほどなくして

冬に入院して、

そして春に世を去った。

最後まで仲良しだったんだなと、

そんなふうに見えて仕方がなかった。

 

義両親を見送って思うのは、

当たり前なのだが、

人はいつか亡くなるということ。

それは1つの例外もなく。

身分も資産も頭脳も体力も関係なく。

人はみな平等に、

おぎゃあと生まれて、

そして去っていく。

誰でも知っているこの理に、

今こうして現実味が出てきたのだ。

今までは「知っていた」けど、

「分かっていなかった」のだと。

 

それはこれからの人生をどう生きるか。

それを腹の底から考えなくてはならないと、

真剣に思う事なのだ。

だからこそ、この人生は、

こんなにも輝いているのだと、

そんなことを思うことができたのだ。

 

義両親の新盆がきた。

両手を合わせて祈った。

どうか、安らかにお過ごしくださいと。

それは全ての人々が、

通る道なのだ。

人生は素晴らしい。

そのことを胸に抱いて、

明日からも生きていきたいと思う。

 

 

 

 

【エッセイ】真夏のセミに思う

先日の新聞での投稿欄で、

セミは7年間、地下で過ごして、

その後1週間ほどしか、地上で生きられない」

とあった。

以前から知っていたこととはいえ、

そのことが頭の中にあるまま、

庭に出た時にセミがみんみんと

にぎやかに鳴いているのが気になった。

「このセミたちも一週間なのか」

としみじみ思ってしまった。

 

その新聞の投稿欄は、

おばあさんがお孫さんのことを書かれていて、

セミが1週間しか生きられない」

と聞いたお孫さんが、

「虫かごからセミを逃がした」

とつづられていた。

その時私は、なにげなく、

そうだよな、1週間だもんな、

地上で思いっきり過ごさせてあげたいよな、

と納得していた。

でも、ふと。

「地上で過ごすことがうれしいって、誰が決めたの?」

とそんな考えが頭の中に浮かんできた。

 

大抵の場合、なにかを考える時に、

自分を基準にして考える。

それはもっともふつうの事で、

自分以外の目線には、

なかなか気づかないからだ。

だけどセミの気持ちになってみれば、

どうだろうかと思う。

 

「住めば都」という言葉があるように、

ずっと住んでいるとその場所は、

自分になじんでいくのではないかと思う。

最初は不便に目が行くとしても、

その対応方法を考えて適応していけば、

今いる場所が一番やりやすい、

となるのではないかと思うのだ。

 

たとえ地下には、日の光が届かなかったとしても。

たとえ地下には、思い切り飛べる空がなかったとしても。

羽が生える前のセミにとっては、

外敵から身を守り、

強い日差しや雨や雪から守ってくれる、

土壌がありがたい存在なのではないかと、

そんな風に思ったりもする。

 

もしも幼虫のまま地上に出されたら、

外敵に捕食されてしまうかもしれない。

あるいは強い日差しに耐えられず、

干からびてしまうかもしれない。

そう思うと、暗い地下はまるで、

身を守るシェルターのようだと、

ふとそんな考えが浮かんできたりする。

 

そして、また。

もしかしたら、だけれど。

地下にいる幼虫がすべて、

地上でセミとなって飛べるわけではないのかもしれない、

とも思った。

幼虫のまま、生涯を閉じてしまうセミだって、

いるのかもしれない。

 

今もまだ、外ではセミがみんみんと鳴き、

ばたたたっと空を飛んでいる。

それがまるで幸せを謳歌しているように見ているのは、

私たちが地上を楽しい場所だと思っているから。

大声で鳴くことが、楽しい事だと思っているから。

けれどもしかしたら、

セミにとってみれば、

「地上に上がるということは、もうすぐサヨナラすること」

だと、悲しく思っているかもしれないのだ。

それを確かめるすべはありません。

ただ、そういう見方もあるのだと、

そんなふうに思ったのだ。

 

今朝の新聞の訃報欄。

「フランスの歴史家 94歳死去」とあり、

美しい白髪の高齢女性の写真があった。

こんなにきれいで、聡明で、長生きされて、

この方の人生は幸せだったのだろうなと、

そんなふうに思ったの。

でもそのすぐ後に、

「94歳まで長生きしなかったら、

幸せではないのだろうか?」

と思ってしまった。

 

義理の両親はともに、昨年、今年、

80歳と85歳で他界した。

でももし、94歳まで長生きしていたら、

もっと幸せだったのだろうか。

94歳まで生きられなかったら、

義理の両親は幸せではないのだろうか?

そう自問自答してみた。

 

そして思った。

そんなことはない、と思うと。

毎日をぼちぼち楽しくできていたなら、

それは間違いなく、幸せな人生だったと言えると思うのだ。

人生は長さじゃなくて、その内容の充実度だと、

自分が納得しているかどうかだと、

そんな風に思ったのだ。

 

義理の両親は世を去る前の1年ほどは、

老人ホームに入っていて、

生活全般をお世話してもらっていたそうだ。

それは快適な環境で、広々として館内で、

優しい職員さんによくしてもらっていたようだ。

けれども。

両親が他界した後で老人ホームに行った際、

職員さんから聞いたことがある。

「○○さん(義母の名前)、いつもこの窓から外を見ていたんですよ。

家に帰りたかったみたいですね」

やさしい口調でそう言ってくれた職員さんんは、

すこし寂しそうに見えた。

お仕事とはいえ、サヨナラすることが前提の交流は、

しんどいだろうなと思った。

そしてまた、そのやさしさに感謝の気持ちを

抱かずにはいられなかった。

 

もう、形のある親孝行はできない。

でも、これからは、義母に教えてもらったことを、

孫である、うちの二人の娘に教えていきたいと思っている。

 

陽の当たる日も、

雨が降る日も、

変わらずたんたんと毎日を生きていくこと。

たくましく生きていくのだということ。

そのことを教えていきたいと思っている。

 

もうすぐお盆がやってくる。

今は亡き義理の両親が、

帰ってくるように思う。

しっかりやっていますよと、

胸を張って言えるように。

これからも毎日をたくましく

生きていきたいと思っている。

 

 

今も外でセミが鳴いている。

飽きることなく、

途切れることなく。

セミが鳴いていている。

何をそんなに訴えたいのだろう。

せめて、今生きているこの地上を、

楽しんでほしいと願っている。

 

 

 

 

 

 

【エッセイ】義母とやわもちアイス

 

 

先日の事。

次女が朝から療育に行く日だったので、

長女と二人でのんびり過ごした。

もともと、のんびり屋さんの長女と私。

なにをするでもなく、のほほんとしていた。

それでも「なにかしたーい!」

言われたもので、

近所のコープに3時のおやつに、

アイスを買い食いしようと出かけた。

 

疫病がおさまったので、

ようやくスーパーのイートインコーナーが使えるようになり、

自転車利用者の私にとっては、

アイスをすぐに食べられるのはうれしい限り。

もちろん、氷などを駆使すれば、

アイスを買って帰って食べることもできるが、

帰宅してすぐ食べても、

どうしても、ちょっと緩いアイス、

になるのがちょっと残念なんだよね。

 

ということで、長女とお出かけして、

アイスを選んだ。

いつもは、サンデーカップやチョコ系のアイスを選ぶのだが、

この時目についたのは、「やわもちアイス」。

しかも普段見ない、抹茶を使ったもの。

珍しいな、抹茶味か。

そう思って見ているうちに、

何だか無性に食べたくなったのだ。

 

この「やわもちアイス」は、

もともと義母が好きだったアイスだ。

主人の実家でみんなでアイスを買いに行き、

「これが、おいしいんよ」

と義母がうれしそうに教えてくれたのだ。

「そうなんですね」

そう言ってはみるものの、

どうしてもチョコ系に目が行く私は、

うなずきはしても、

一度も一緒に食べることはなかった。

 

カップ入りの、白玉が入っているアイス。

珍しいし、たぶん美味しいのだろうけれど

その時の自分の気分ではなかったので、

それを選ばなかった、

それだけのこと。

特に、申し訳ないと思ったこともなかった。

各自が好きなアイスを選べばいい、

そう思っていただけなのだ。

 

それなのに。

10か月前に義母が亡くなってから、

主人の実家に行くたびに、

いつもいくスーパーのアイスコーナーを見ては、

「やわもち、好きだったな。

一緒に食べてあげればよかったかな」

と思ってしまう。

なんでもないそんなことに、

胸がぎゅっとなり、ほんのひと時、

「これがおいしいんよ」

という義母の明るいうれしそうな声が

思い出されるのだ。

 

初めて食べた、やわもちアイスは、

おもちがすこし固めで、

しっかりとした歯ごたえで、

それをシャキシャキのかき氷状のアイスが取り囲み、

表面にはとろりとしたクリーム色の練乳がかかり、

一緒に食べると、白玉入り抹茶かき氷を食べているようで、

なんともぜいたくな気持ちになった。

 

「これが、お義母さんの言っていた、

おいしい、やわもちアイスなんですね」

心の中でそう言いながら、

ひと口ひと口かみしめながら、

味わっていった。

そばには長女が新作の味のお気に入りのアイスを、

うれしそうに食べながら、

冷たい冷たーいと、

つぶやいていた。

 

それをそばで見ながら、

それでも、やわもちアイスを食べながら、

ちょっと感傷的になっている私は無口で、

静かにアイスをかみしめていた。

もどらない時間を思いながら、

「ああすれば良かった、

こうすれば良かった」

そんなことの積み重ねだなと、

ぼんやりと考えていた。

 

義母がいたころはスーパーに

いろいろな種類のやわもちアイスがならんでいたものだが、

最近はすっかりその範囲をけずられてしまい、

なんだか寂しい気持ちにもなっていた。

それがなくなったからといって、

義母との思い出が消えるわけではないのに、

なにかが少しずつ風化してしまうような気が

してしまっていたのだ。

 

そういえば、義母が入院する少し前に、

行きつけのスーパーが店内の配置を大幅に変えて、

レジも現金セルフが導入されて、

それにともない、義母の顔なじみのレジおばちゃんも、

大幅に減ったように思った。

私達家族と義母がそろってスーパーに行くと、

なじみのレジおばちゃんが、

「今日はお孫さんと一緒でいいねえ」

などと明るく会話してくれていたものだ。

 

その方々がいなくなったのは、

私も少々さみしく、

おそらくは義母も同じ思いだったのではないかと思う。

そんな小さな出来事を、

この小さなやわもちアイスは、

思い出させてくれた。

 

アイス業界は新作がしょっちゅう発売される

激戦業界だと思う。

新作が出るのはうれしい反面、

慣れ親しんだアイスが姿を消すのは、

その思い出もうすれていくようで、

残念な気持ちになる。

 

今はまだまだスーパーに並ぶ、やわもちアイスも、

いつその地位を失うことになるか、

分からない。

そう思うと、今回思い切って食べてみて、

その美味しさを感じることが出来て、

良かったなと思う。

 

いつだったか。

私たち家族と義妹家族とが集まって、

総勢9人が集まった時に、

「アイスを買ってきて」

とお金を渡されたことがあった。

いつもは倹約しているらしい、

年金生活者の義母夫婦。

私は機転を利かせて、

ハーゲンダッツのミニカップ詰め合わせ」

を選んで買って帰った。

 

堅実な生活をしているものの、

実は百貨店が大好きな義母。

私の選んだハーゲンダッツのアイスに、

ことのほか喜んだようで、

思いっきり頬がゆるんでいた笑顔を思い出す。

その顔が今も脳裏に焼き付いて、

「かわいいところのある方でした」

と楽しい思い出に、

ひととき現実を忘れる。

 

今は亡き義母。

それでも私は生きている。

今までの宝物に感謝して、

これからを生きていきたいと思う。

感謝を胸に。

 

 

 

【エッセイ】100歳の祖母の入院

先日、母方の祖母が入院した。

祖母はショートステイに滞在していて、

3週間はそこで、残り1週間ほどは、

もともと住んでいた自宅で、

息子夫婦と過ごすという生活を何年もしていた。

 

入院の知らせは、その祖母宅に住んでいる叔母からで、

「ご飯が食べられなくなり、入院した」

ということだった。

叔母から、知らせを受けた母が、

私に電話をくれた。

 

母は取り乱すこともなく、

ただ淡々としていて、

「もしもの時、着ていく黒い服がないなあ、と

○○ちゃん(叔母の名前)と話したんよ」

と言っていた。

「おばあちゃんも、もう100歳だもんねえ。

どうなるか、分からんよねえ」

と私も母に合わせるように、

ことのなりゆきを見守るしかないというスタンスのことを、

ぼんやりと話すだけだった。

 

2か月前、足と腰の不自由な母と、私とで、

重い腰を上げて、祖母宅に行ったのだ。

「これが最後になるかもしれないから」

との思いで、二人で出かけたのだ。

 

「100歳おめでとう!」

そう言って、事前に配達を頼んでいた紅紫色の胡蝶蘭を箱から出し、

祖母に渡してお祝いの言葉をかけたのだ。

数年前はそれでも、母や私の事をしっかりと覚えていて、

名前もすらすら出ていたというのに、

この時はなかなか名前も出ず、

「おばあちゃん、お話の内容分かっている?」

と心配するほど、よろよろとしていたのだ。

 

頭は真っ白になり、話もおぼつかなく、

一人で歩くことは出来ず、

叔母に座布団に乗っけてもらってようやく移動できるような、

そんな感じだったのだ。

それでも。

左手に茶碗、右手にお箸を持ち、

しっかりと自分でご飯を食べている様子を見て、

「もうちょっと、長生きできるかな?」

と期待もしていたのだ。

ご飯を半分くらい食べて、

腹八分目でやめて、

まだ健康に気を付けて、

食べすぎないようにしていたから、

元気なんだと思っていたのだ。

 

70歳代までは、1年ごとに気を付けて、

80歳代からは、1か月ごとに気を付けて、

だっただろうか。

とにかく高齢になればなるほど、

気を付けなくてはならない頻度は、

ぐんと上がるのだと聞いたことがある。

100歳ならば、なおのこと。

一日一日が、気を付けなければならない頻度なのかもしれない。

真っ白な頭の歩けない祖母を思い出せば、

確かにそうだと、思わずにはいられない。

 

祖母はおそらく、

大正時代の最後の方の生まれだったのだと思う。

大正、昭和、平成、令和と、

長きにわたってその時世を見て来た生き字引の人。

10年以上前に、私が結婚式を挙げた後、

ウエディングドレスを持って祖母に会いに行った時に、

言われた言葉が今でも脳裏に焼き付いて離れない。

 

「◇◇ちゃん(私の名前)は、いい時代に生まれていいなあ。

私の時なんかは、こんなにきれいなの、着られる時代じゃなかったからなあ」

 

祖母は戦争で病気になった祖父を20歳代で亡くし、

戦争未亡人のようになって、苦労したそうだ。

「私は性格が良かったから、義理の両親が一緒に暮らしてくれたんよ」

と、いつもけらけら笑って教えてくれていた。

 

祖母のお決まりのセリフ。

「◇◇ちゃん(私の名前)、私はね。

顔も頭も悪いけどね、性格はね、いいんよーーー」

という祖母のあまりにも、にくいほどに面白いセリフを聞くのが、

私は超大好きだったのだ。

正統派美人の顔ではないけれど、

かわいいファニーフェイスのおばあちゃん。

東大卒ではないけれど、どうやらお嬢さんだったらしく、

兄弟の世話を頼まれて、ろくに学校に出席できず、

勉強する環境があまり整っていなかったのだと聞いたことがある。

そんなことを、いろいろ言い訳するわけじゃなく、

このセリフ。

参りました、のひとことだね。

 

おぎゃあと生まれて、すーっと息を引き取るまで、

一体どのくらいのことを成し遂げられるのだろう。

赤ちゃんで亡くなった子も、

100歳で亡くなった大人も、

どれほどの意味があるのだろうか。

 

それを考えだしたら朝までかかっても、

きっと答えは出ないのだろう。

そして答えが出ないからこそ、

人生の意味があるような気もしてくるのだ。

 

なすべきことがある人が、長生きする?

なすべきことがない人は、長生きしない?

そんな単純なものなのだろうか?

どんなことをしても、

たいしたことをしなくても、

それはその人の自由で、

それでも生きる意味はあるのではないかと、

ふとそんな風に思ったりする。

 

祖母は100歳まで生きた。

母は100歳まで生きられるのだろうか。

私は100歳まで生きていけるのだろうか。

それは誰にも分からない。

ただひとつ、真実なのは、

今はまだ、祖母も母も私も、

この地球に生きているということ。

それだけがまぎれもない真実であるのだ。

 

祖母は今頃、病院のベットで何を思っているのだろう。

面会は出来ない病院なので、

各々の場所で、想像するしかないけれど。

願わくば、あまりしんどい思いをしていなければいいなあと、

そんな風に思うのだ。

 

「おばあちゃんの幸せを、今もずっと思っています」

 

直接は言えないから、せめて心で祈っている。