冬菜かしこの「のんびり ゆっくり 親孝行」の日々

70歳代後半の親と50歳代前半の娘のゆるい介護のような親孝行の記録です

父の老人ホーム

父が認知症専門病院に入院して、

もうすぐ2か月になる。

そろそろ、入院生活による弊害が心配される時期になる。

つまり、足腰が弱くなり、家族を忘れ、

色々なことが出来なくなる、

そういう目安の時期が来ている、ということ。

 

本当はもっと早く、

できれば入院してすぐ、退院先を探し始めれば良かったのだろう。

しかし、母の手術やら、私がバイトを始めたり、長女が中学に入学したりと、

あまりにも忙しくて、父の老人ホームの事を後回しにしてしまっていた。

 

そして、父が入院してから、実家に行って、

父の世話をしなくてよくなった気楽さもあり、

少し自宅で息抜きをしたくなったのもある。

要するに、しばらく介護の事から離れたかったのである。

 

それでも入院から2か月がたち、

そろそろと重い腰を上げて、

実家に行き、母と話をして、

近所の老人ホームに見学に行った。

前々から気になっていた、極近所の老人ホーム。

出来ればそこを、父の終の棲家にできればと思っていた。

 

しかし、結果は良くなかった。

2か月前に電話した時に空室3室あったものが、

現在は空室1室で、それももう決まりそうとのことだった。

仕方なくあきらめて、同じグループの別の老人ホームを紹介されたので、

そこに行ってみた。

 

結果として、とても設備が良かった。

雰囲気もとても良かった。

職員さんも親切そうだった。

ただし、費用は1万円ほど高くなり、

予算よりオーバーしてしまう。

 

しかし、「認知症アルツハイマー発症から5年経ったのなら、

そこまでの長生きは難しいかもしれない」との職員さんの言葉に

ハッとさせられた。

父の長生きを願うけれど、健康な高齢者と同じだけ生きられるかは、

分からないなと思った。

それならば、最後は楽しく暮らさせてあげたい。

今まで人一倍働いてきた父だから、

最後はゆっくり休ませてあげたい。

少しぐらいの予算オーバーは、

良いのではないかと思えてくる。

 

こんな風に、老人ホームを一所懸命さがしても、

いつか父は私を忘れるのだろう。

今までの思い出を、すっかり忘れてしまうのだろう。

それでも、最近は、まあいいかと思えてくる。

私は忘れない。

それでいいのだと思えてくるのである。

何もかもが変わらずにいることなど、

人生にはないのだから。

流れる川の水のように、

すべてはいつも変わっていっている。

それでいいのだ。

 

それを受け入れてこその人生だと、

悟った人のようなことを思う、

今日この頃の私なのである。

【エッセイ】母の望み

年末に向けて、金曜日のイベントが増え、

結局、週ごとの実家帰省は、火曜日に変更した。

 

金曜日はデイサービスが無いので、

父と母と私とで、のんびりお茶などして、

おしゃべりしたりしている。

たわいのない話に、時間がゆっくりと過ぎて、

それほど役立っているとは思ってはいなかったのに、

それはわりと役に立っていたようである。

 

火曜日は朝10時頃から、父はショートステイに出かける。

どんなに努力しても、私の実家帰省時間は9時30分を過ぎる。

だから父とは、「来たよー」とか、「ショート行くよー」とか、

そんな感じで終わっていた。

だからだろう。

先日は父がさみしそうに、

「もう、来ないのか。また、来るのか」

と聞いてきた。

「すぐ来るよ。来週も火曜日に来る」

とあわてて安心する言葉をかけるも、

力なく、施設の車に乗り込む父。

窓が閉まった後も、手を振る私に、

顔を向けることもなく、父は出かけて行った。

 

「やはり、金曜日なのか」

苦渋の選択で、火曜日の帰省にしたものの、

やはり父は短時間ではコミュニケーションが足りず、

イライラしたり、力がない顔をしたり、

そうなってしまうようである。

年明けの1月からは、また金曜日に行こうと、

自分自身に決意表明をした。

 

そして、母はと言うと。

私が帰省するなり、父の愚痴のオンパレードである。

どうやら、父がご機嫌斜めだったようで、

母につらく当たるそう。

しかし母も、母で、

「ヘルパーさんが来たら、どうしてもお父さんの愚痴になるの。

そして、この前は、施設に入ってほしいと、愚痴を言ってしまって。

聞かれていたのかもしれないなー」

とため息をついていた。

それは、まずいでしょう。

とは思うものの、母のしんどさが分かるだけに、

励ます言葉しかかけられなかった。

 

そうして、励ましの一環として、

「お父さんには、週4日くらいショート行ってもらって、

その間は、うちに来ればいいんじゃない?

一緒に住む方が、経済的だし」

と言ってみたものの、

母はあまり乗り気ではなかった。

「同居とか、いやなのよ」

そういうので、

「同居じゃなくて、週の内、何日かはうちに泊まるってこと」

と訂正するも、

「あちこち行くと、疲れるし。

だいいち、近所の友達と会えなくなるのは嫌なの」

だそうだ。

 

それは、高齢者にはよくある話。

どうしたって、年を取ると、

新しい場所より、慣れ親しんだ場所の方が住みやすいってもの。

若者のように、明日から海外でも平気、などと、

適応するには、後期高齢者は頭がかたくなりすぎているのだ。

 

分かっている。

分かっているけど。

そこで引き下がるわけにはいかない。

今の母の疲れ具合を見れば、

それが、

放っておいていいものか、よくないものか、

容易に想像がつく。

決して、放ってはいけないものだ。

 

お喋りも以前ほど出来ず、

洋服も無頓着になりつつあり、

買い物にも興味がなくなりつつある。

これはまた、以前のような、

介護うつ状態のようである。

決して、放っては置けないのである。

 

兄も妹も、気が向いたら、実家に来て、

母の面倒をみてくれる。

それはとてもありがたい。

頼むとしてくれるし、

自分たちにできることはしてくれようとする。

 

しかし。

それは「きまぐれ介護」の域を出ない。

母の様子を注視して、父の様子を観察して、

今何が必要なのか、

吟味して提供する。

細かい変化に気づく。

ということは、ないのである。

 

私はある意味、「実家の介護は仕事」だと、

そういうふうに思っている。

そうしないと母の事も父の事も、

守れないと思っているのである。

責任をもって、毎週お世話に行く。

そうして、わずかな変化を見逃さない。

もしも自分が高齢者になったとしたら、

周りの人に、自分の存在価値を、分かってほしい。

だから今、私は母に会いに行っているのかもしれない。

 

年末年始は、次女がおばあちゃんの家に行きたい、

と言っている。

晦日におばあちゃんの家で、

年越しをしたいそうである。

それは「おばあちゃんちなら、夜12時まで起きていてもいいから」

という子供らしい発想もあるようだが、

要するに、おばあちゃんが好きなのである。

 

「おばあちゃんは、お母さんみたいに怒らないから」

そんな風に言われると、

「それでこそ、おばあちゃんの存在意義だ」

と思い、うれしくなるのである。

私も通った、祖父母との思い出の日々。

それを次女が感じてくれていることに、

安心感を覚えるのである。

 

周りのママさん達より、一回り以上も年上の私。

どうしたって、おばあちゃん、おじいちゃんも、

年を取りまくっている。

次女の周りには、祖父母が80歳前後など、

ほとんどいないのであろう。

申し訳ない。

それでも、母が頑張ってくれているから、

支えていきたいと思うのである。

 

どんなに体が不自由になっても、

自宅で過ごしたいという母。

年末年始も、出来るだけ、自宅で過ごしたいという母。

それが母の望みなら、

それを叶えてあげられるよう、

私がしっかりと考えていくまでだ。

 

ひとまず。

「次女がおばあちゃんと年越ししたいってさ」

と母に言うと、

「まあっ!」

とうっれしそうに、あははと笑っていたので、

それは実現できそうな気がしている。

 

母と父との年越し。

出来るなら、いつまでも。

と思っている娘の私なのである。

 

 

【エッセイ】カーテンを新調

実家のリフォーム部屋のカーテンを新調した。

 

その日は、本当は雨だから来なくていいと言われていたが、

やはり、心配だったので勝手に行ってみた。

そして、いざ、行ってみれば、

「あんたと一緒に、カーテンを買いに行きたかったのよ」

とのこと。

なぬ?

 

結局、私が来た方がよかったんじゃないか。

相変わらずの「来なくてもいいのに作戦」に、

がっくりきた。

いつまで、こんな作戦を続けるのか。

いちいち疲れる。

 

しかし、さて。

カーテンを買いに行くにしても、実家には車がない。

来月なら主人の車で一緒に買いに行けると思ったのだが、

「ひと月もすると、フローリングが色あせるから」

と急かされてしまった。

結局、すぐに、タクシーでニトリへと向かった。

 

久しぶりの大型店で、

母はきょろきょろしていた。

カーテンを見るはずが、

なぜかベットコーナーへと足が向かう。

「介護ベットはもうやめて、

小さい普通のベットにしたい」

そう言いながら、ベットコーナーを見て歩く。

 

確かに、新しくリフォームした6畳間に、

介護ベットは大きすぎる。

「もう体は大丈夫だし。リクライニングしなくてもいい。

今はもう病人じゃないんだし」

そう言って、嬉々としてベットを品定めする母。

「これなんか、いいんじゃない?」

小ぶりな畳ベットを指さす。

 

うん、いいと思う。

いいと思うけど、今はカーテンを見ないとね。

ベットコーナー見ているだけで、

疲れちゃったら駄目だからね。

そう思った矢先、母の方から、

「まずは、カーテン選ばないとね」

と本来の趣旨を思い出した模様。

良かった。

 

そして本題のカーテン選びに向かった。

なぜかスッカスカのカーテンコーナーに疑問を感じ、

店員さんに聞くと、

「レイアウト変更中なので。あ、でも、品数はあまり変わりないです」

とのこと。

そうか、色々移動中なのか。

ついてないな。

でも、こちらは急ぎの買い物なのだ。

何が何でも、今日、買って帰らないと、

フローリングがえらいこっちゃになる。

私は強く思った。

 

売り場には、20列だか30列だか、

見ているだけで疲れそうな程、

ずらりとカーテンが並んでいた。

グリーンにスカイブルーにピンクにベージュに、

幾何学に葉に花に、

いろいろな色や柄があり、母は迷っていた。

でもその過程も楽しんで、

「どれがいいかなあ」

とはしゃぎながら迷っていた。

 

結局、グリーンの小さな小花模様のものを選び、

これにする、とした。

レースのカーテンも好きなものを選んだが、

それは在庫切れだった為、注文して、

後日配送となった。

 

帰りは、バスの予定だったが、

疲れた母が、タクシーにすると言った。

電話で予約すると、早ければ5、6分で来ると言った。

タクシー到着までの間、母は、

「ちょっと見たい」

と店内を見て回っていた。

さながら、子供のような無邪気な様子であった。

 

「ああ、買い物に来たかったのだな」

と実感した。

何でもいいから、気分転換をしたかったのだなと思った。

そして同時に、

それほどまでに、日ごろ、気を張って、

認知症の父の介護を頑張っているんだなと感じた。

 

申し訳ない。

私にはどうしてあげることもできない。

せめて週一回の実家帰省で、家事手伝いと、

愚痴を聞くぐらいしかできない。

それでも、母に気を配るくらいは出来ているか、と思った。

 

タクシーが来て、実家に帰った。

残念そうに、ニトリを後にした母。

本当はもっと見て回りたかったのだろう。

「また、来ようね」

というのが、精一杯のなぐさめであった。

 

帰宅して、カーテンを取り付ける。

暗くなった部屋に照明をつけると、

薄いグリーンのやわらかな色が、

リフォームしたての、きれいな部屋に映えた。

 

「やっぱり、もう少し高いものにした方が良かった」

と後悔をにじます母に私は言った。

「これがいいよ。すごくいい。

やさしい、かわいい感じで、雰囲気がとてもいいよ」

母が何と思ったのかは分からない。

でも、私の言葉が母を、

ポジティブに変えてくれたらいいなと思った。

 

「これで、一応、部屋は整ったね」

とにこやかに言う母に、

「そうだね。あとはゆっくり、タンスとか、買っていけばいいね」

とうなづいた。

 

ニトリでも、タンスを少し見た。

実家にある、

引き出しが信じられないくらい重いものではなく、

横にレールのついた、かるーく開閉できるタイプ。

母も、これなら軽くていい、と言っていた。

 

一度に全部は出来ないけれど、

ゆっくりそろえていけばいいと思う。

それは、裏を返せば、

時間をかけても大丈夫なように、

私が母を支えて、長生きをお手伝いしていく、

という決意表明。

まだ先は長いのだと、今を楽しんでほしいとの、

私の願いでもある。

 

居間の引き戸を開けはなした。

居間とリフォーム部屋がひと続きになった。

そして。

私と母が、居間の中から、リフォーム部屋を見る。

照明もカーテンもついて、白い壁紙がまぶしい。

 

「いいね」

と私が言えば、

「いいのよー」

と母が返す。

ひと月前には思っても見なかった、

美しい光景が広がっている。

 

なんだかいいこと、ありそうだなと思う。

ここから、いい気流にのって、

上昇して行けたらと思う。

来年の事も、5年後、10年後のことも、

今はまだ見えないけれど、

この一瞬一瞬を大切にしていきたいと

思えてきたのである。

 

と、その前に、

今回のタクシー代が、

五千円ほどかかったことを、

母に注意しておかなければ!

バスで行ける場所は、バスで行かなければ!

幸せの上昇気流に、

散財は大敵なのである。

 

【エッセイ】実家のリフォーム

実家のリフォームが始まってから、

十日ほどが経った。

おととい、いつもの実家帰省が出来なかったので、

今日、確認を兼ねて行ってみた。

 

簡素に低価格でしてもらう、

と聞いていたので、

どのようになったのかと心配していた。

しかし実際見て見ると、

とてもしっかりと改装されたいた。

 

板張りの壁と、天井は、凹凸もなくなり、キレイにクロスが張られ、

床は明るい色のフローリングになって、

吐き出し窓は、真新しい茶色のものがはめられていた。

小さい直しはまだあるものの、

部屋のイメージはすっかり出来上がり、

「こぎれいな6畳の個室」となっていた。

 

しかしここまで、こぎつけるのには、

並々ならぬ、抵抗があった。

 

もともとこの部屋は応接間であった。

けれど、父の仕事の端材が置かれ始めたのがきっかけで、

次第に物が増えていった。

そこへきて、当時飼っていた老猫が「要介護状態」になり、

どこか「介護できる部屋」が必要とのことで、

この部屋へ移ってきたのである。

何年もそこで介護をするうちに、

次第に窓を開けての換気も、

掃除機を使っての掃除も、

しなくなってしまい、

物だけがどんどんたまっていった。

そしてついには、

「ゴミ部屋」と化していった。

 

丁度そのころ長女の出産の頃とかぶっていたため、

私はなにも出来ないまま、

なりゆきを見るしかできなかった。

でも心の底では思っていた。

「おいおい。ゴミ屋敷ですやん」と。

 

出産したばかりでめまぐるしい毎日の中、

実家に気をやることなどなく、

月日は過ぎていった。

2年後に次女を出産する時、

相変わらずゴミ部屋だったのを、

「どうにかしたら?」

と言ってみたが、

まったくもって聞く耳を持ってもらえない。

「部屋が足りないわけじゃないから。

他の部屋を使えばいい」

というのが、その理由だった。

 

仕方ないかとあきらめていたが、

転機は急にやってきた。

1年前に、母が自転車で転倒して入院。

背中を骨折して、歩くのも困難な状態。

介護用ベットを居間に運んでの生活となったのが、

そのきっかけとなったのである。

 

いくら8畳の広めの部屋とはいえ、

介護用ベットを入れると、

部屋の半分はベットになってしまう。

母はそれでも「大丈夫。大丈夫」

というが、全然大丈夫ではない。

母本人が納得しても、私は納得など出来ない。

「居間の半分をベットに奪われて、

そんな生活、認めない!」

そこから、私の反撃が始まった。

 

以前から、このゴミ部屋にはへきえきしていた。

この部屋がきれいなら、

小さい二人娘がここで寝泊まりして、

ゆっくり過ごせたのだ。

そうすれば、連泊も問題なくできたはずなのだ。

 

けれど実際は、この部屋が使えないから、

実家に泊まる時はいつも、

父の部屋を借りて、寝泊まりするのである。

幼児二人を二階にはやれない。

階段があぶなすぎるのである。

そうすると残るは父の部屋。

お願いして借りるしかないのである。

 

しかし、父は超短期なのである。

機嫌がいい時はとてもいい人だが、

ちょっと機嫌が悪いと、

「ここは、わしの部屋だ」と怒ってしまう。

私たち親子は「すみません。寝かせてください」

と小さくなって借りていたのだ。

悲しい事である。

 

そういうわけで、

この機会に是が非でも「ごみ屋敷改装計画」

を実行に移したいと思い、

必死になって動いていったのである。

 

まずは、母の入院中に、

「ゴミ部屋のものを全捨てする!」

と母に宣言した。

すでに業者との話はつけておいた。

慌てた母は「私が退院するまで、だめー」

と言っていたが、聞く耳を持たなかった。

 

母の必死の抵抗で、

妹が母の命令で、最低限のものを残す段取りをした。

そして私は業者を頼んだ。

一応、母の懇願で、退院数日後、

母の立ち合いのもとでの、ゴミの運び出しとなった。

予定金額を30パーセントオーバーの6万円超。

母はため息をついたが、

私は納得していた。

何もなくなったゴミ部屋は、

まだまだ埃っぽいとはいえ、

その全貌をみせてくれたのである。

「こんなに広かったんだ」

と感動すら覚える光景であった。

 

力技でゴミを捨てたのはいいが、

問題はそれからであった。

床も天井も壁も、すんなりとはいかない荒れ模様。

案の定リフォーム見積もりは、

圧巻の「100万円」であった。

これには私もぐうの音も出ない。

しかし、ここで立ち止まるわけにはいかない。

それでは何のためのゴミ廃棄だったのか。

キレイにリフォームして住まなければ、

何の意味もないのである。

 

そこから、予算をどうするかを考えた。

母は自分がなんとかすると言ったが、

なんともならなかった。

土地持ちのくせに、金融資産がほぼないのである。

自宅以外の土地は持っているが、

売りたくないの一点張り。

高齢者によくありがちな

「土地持ち、金融資産なし」家庭なのである。

結局、兄に建て替えてもらうことになったが、

それもすんなりとはいかなかった。

 

兄の考えはこうだ。

「どうせ近い将来、父母は老人ホームに入る。

だから、実家にお金をかけても仕方がない」

のだそうだ。

実家を売る気満々である。

まあ、分からなくもない。

いつ両親が老人ホームに入るのか、

誰も分からないのである。

明日かもしれないし、

永久に入らずに終わるかもしれない。

それは誰にも分からないのである。

 

ただここで、私は言いたい。

「いつか売るからと言っても、

今、両親はここに住んでいるのである。

不便この上ない暮らしを、

年金暮らしだから、という理由で、

我慢を強いられているのである。

 

考えてみてほしい。

毎日毎日、半分ベットが占領した部屋で、

隣にゴミ部屋を見ながら、

窮屈な生活を強いられた生活が、

果たして、健康で文化的な最低限の生活、と

言えるのだろうか?」

私の答えは、NO!である。

 

とはいえ、兄はもとより、

母にもこの理屈が通らなかった。

「そのうち、売る家だから。

お金をかけても無駄なのよ」

だそうだ。

「そんなことはない!

リフォームしたら、暮らしが変わる!

生き生きと暮らせるようになるんだ!」

といくら訴えても、

母は耳を貸そうとはしなかった。

無理なのか?

私はあきらめかけた。

 

でもどうしてもあきらめきれなかった。

なので作戦を変更することにした。

「きれいにリフォームしたい!」

と正面突破するのではなく、

「ちょっとだけ、リフォームする?」

と提案したのである。

 

毎度毎度、実家に行くたびに、

リフォームの話をする。

うんざりされても、あきれられても、きらわれても。

そして予算を、当初の半分以下を目指すように説得。

もちろん、希望的観測の金額である。

最低限のものだけ直して、

安く直そうよと。

すると、だんだん、母がその気になってきた。

「知り合いの業者に頼んでみる」

と言ってくれた。

その後、「頼んできた」

と言ってくれた。

よし!あともう一押し。

 

そこで、母の悪い癖が出た。

「気が変わった」のである。

母の知り合いの業者がする予定だったのに、

待てど暮らせど、なかなか始まらない。

何か月たっても、業者は来ない。

母をせっついても、

「そのうち来るでしょう」

とのこと。

どうやら安く請け負ってもらう代わりに、

「いつ、工事してもいい」

と言ったらしい。

 

私も、待った。

業者に頼んでいるならば、

そのうちに来るだろう。

しかし、半年が過ぎても来なかった。

しびれを切らして、決心した。

別の業者を当たろう。

そして母に告げた。

「母の頼んだ業者が来ないなら、

私が別の業者を頼むから。

もう一度、業者に、いつ来るか聞いてほしい」

 

そこまで言ってようやく母は連絡をして、

「来てもらう日が決まった」

となったのである。

長い道のりであった。

実は母は、やはり大きなお金をかけてリフォームすることに、

多少の不安があったようである。

それで積極的に業者に連絡しなかったのだ。

その気持ちも分からなくもないが、

私はもうそれ以上、待つことが出来なかったのである。

 

居間に鎮座する介護用ベット。

棚が壊れて開け閉めできない洋服ダンス。

そこら中に置き散らかされている本や雑誌。

 

それらをすべて解消するためには、

是が非でもゴミ部屋の活用が急務だったのである。

しかし我が家の誰もが、

異を唱えていたリフォームであった。

唯一見方だったのは、反対も賛成もしなかった妹のみ。

仕方ないけれど、苦しい戦いであった。

 

果たして、大半のリフォームを終えた今。

両親の反応はいかに?

 

要介護3の認知症の父は、相変わらず寝てばかりいる。

けれど、今日の訪問の後の別れ際、道路際まで出てきて、

母と二人で見送りをしていた。

私たちが見えなくなるまで手を振っていたのだ。

リフォーム効果かどうかは、定かではない。

しかし、元は設計士兼大工の棟梁で、

建設会社の経営までしていた人である。

一定の刺激にはなったのではあるまいかと、

私は思っている。

 

要支援1の母はと言えば、ご機嫌な様子で、

「カーテンは節約して、ニトリで買うわ」

と浮かれている。

加えて、昨日実家に妹が来た際、

母と妹とで、私のことを絶賛したのだとか。

「これからはお姉ちゃん(私)の言うとおりにする。

お姉ちゃんのすることが一番、間違っていないわー」

だとか。

この間までの、けちょんけちょんとは、

うって変わっての態度である。

 

あまりにも、掌返しが過ぎる。

と私は憤慨した。

「どうせ、また、すぐに。

私の功績などすっかり忘れて、

けちょんけちょんに、けなすんでしょうよ!」

とふてくされた。

そんなに簡単に許すもんですか!

絶対に、絶対に、絶対に。

今までの態度を忘れることなど、

出来るものですか!

私はかたくななまでに、

自分姿勢を貫いた。

 

でもちょっと。

実はちょっと。

ふふふ、と。

にやけてしまった私なのであった。

【エッセイ】認知症の父の言葉

要介護3で認知症の父は、

なぜか自分の悪口だけは理解する。

不思議な力を持っている。

 

日頃は、認知症らしく、

朝ごはんをたべたかどうか、

一日になんかいも聞いてくるのである。

私が見た限りでも、午前中だけで、

5、6回以上は聞いてくる。

 

最初の1、2回目は、こちらも

「朝ごはんは食べたよー」

と和やかに対応するのだが。

4回5回となってくると、

だんだんうんざりとしてくる。

 

認知症が進んでいるので、

本人はいたって大真面目に聞いてくる。

だから、悪気があって言ってはいない。

しかし何度も繰り返されると、

「そんなに何回も聞かないでくれ」

と思ってしまう。

要するに疲れるのである。

 

だからそういう時には、

ただひたすら、

「もう食べたよー」

と返事をする。

すると、

「そうか、食べたかー」

とその瞬間だけは理解して、

父は自室に帰ってくれる。

やれやれである。

 

そんな父が、なぜか突然、

認知症患者でなくなる時がある。

それはいつかというと、

「父の悪口を言っているのを聞いた時だけ」である。

なぜか、話の内容を正確に理解して、

話に来るのである。

 

例えば、母が介護疲れで、

「もう疲れたから、お父さんを老人ホームにいれたいのよ」

などと愚痴をこぼすと。

台所から、居間を挟んだ自室の部屋にいる父が、

なぜかそれを聞いていて、

私と二人きりの時に、聞いてくるのだ。

「わしは、外されるんか?」と。

 

「そんなことないよ。

ずっとここ(実家)にいていいよ」

と私があわてて訂正すると、

落ち着いた様子をみせて、安堵する。

 

更に。

「でも、トイレが出来なくなったら、

ここ(実家)には、いられないよ。

私達、トイレのお世話は出来ないから」

と言うと、

その後は、トイレ以外で用を足すことはしなくなった。

 

「本当に理解していたの?」

と信じられない気持ちになったし、

なにより、

ずっとそれを覚えていることに関して、

「そんなに、長い間、覚えていられるの?」

と不思議でならないのだ。

 

まだらぼけ、という言葉があるが、

こういうことなんだろうかと、

思ったりもしている。

それを母に伝えると、

「昔っから地獄耳だったからね」

とはははと笑っていた。

 

そして、不思議現象はまだ続いた。

それは母と口げんかをした時のこと。

 

いつになくヒートアップして、

ケアマネさんを挟んで延々と言い合った後。

私は少し傷心していた。

なぜなら「無理してこなくていい」

とまたもや、

「私の帰省は大して役に立っていない」

発言が出たからである。

 

半年前もそれで大喧嘩して、

怒ってストライキをしたばかりである。

それを言わない約束をして、

話をつけていたはずである。

しかし母はそれを忘れて、

またうっかりと言ってしまったのである。

 

それは、私の地雷。

絶対に踏んではいけないやつ。

それを思いっきり踏んだので、

どっかーんとなったのだ。

 

母と衝突して、

母の用意した昼食を断って、

ぼんやり一人で窓の外を見た。

 

次女が山の学校に行っていて、

いつもより2時間も早い下校なのである。

それを無理して実家に来たのに、

この扱いである。

私は憤慨した。

そして窓の外の曇り空は、

自分の心の中のようで、

見ていて辛かった。

 

そんな私の肩を、

ぽんぽんと優しくたたく人がいた。

誰あろう、要介護3認知症の父だった。

振りむいた私はきっと、

頬が濡れていたのだろう。

父は心配そうに、

でも優しそうに言ってくれた。

 

「どしたん?無理せられなよ」

とても認知症とは思えない、

しっかりとした励ましの言葉であった。

そして続けて、

「この人が一番優しい」

とにっこりと笑ったのである。

 

母との会話をまた、

聞いていたのだろうか。

「お父さんが長生きしたら、

お金がかかって仕方ないわね」

などととため息をついた母を、

「そんなこと言うもんじゃない」

とたしなめた、

私たちの会話を、

聞いていたのだろうか。

そして、理解していたのだろうか。

 

分からない。

認知症患者がどこまで理解できるのか分からない。

 

ただ一つ言えるのは、

父は自分にとって良いことと、悪いことは、

瞬時に分かってしまうだろうこと。

それは父にとってうれしいことなのだろうか。

悲しいことなのだろうか。

私には分からない。

少なくとも、私にとっては、

会話が出来るというのは、

やはりうれしいものなのである。

 

どこまで本当に分かっているのか、

それは未知数であるが。

しかし。

認知症患者、あなどるなかれ、

と肝に銘じた一日であった。

 

【エッセイ】母との口げんか

母との口げんかなど、

いつものことである。

 

大抵は、お金がらみで、

仕送りすれば介護をほぼ免除される兄と、

片道2時間かけて実家にきて労働奉仕する妹の私とで、

それは不平等だと訴えて、

母を困らせるのである。

 

たくさんの仕送りから、

いくらかでも包んでもらえれば、

少しは納得がいく。

 

昨年の母の入院中での、認知症の父の介護も、

今年の父母のコロナ後遺症(ワクチン無し)の看護も、

有償ボランティアならば、

やったるでい、となるものを。

すべてが無償ボランティアとなると話は別である。

精神的にきっついねん、となるのである。

 

今回はケアマネージャーさんをはさみ、

母も私も大討論であった。

しかし何も結論は出ないまま、

ケアマネさんのタイムアップとなり、

自動的に母も私も休戦せざるをえなくなった。

 

ケアマネさんが帰った後、

何もなかったように、

「お昼ご飯できたよー」

という母に、わずかなイライラを感じて、

「今は食べない」

と答えた私。

 

50歳過ぎて反抗期かよと思いつつ、

体から出るイライラオーラは隠せない。

居間に運んできて、チャーハンと煮魚とお茶までついた、

きちんとしたレンチンご飯。

今の母の精いっぱいのおもてなしだと思うけど、

一度曲げたへそは、そうかんたんには直らない。

ぷいっと、ふくれっ面を見せて、

二階に逃げ込んだのである。

おそらく母は一人で、

昼食をとったはずである。

 

「私は悪くない。

母が悪いのだ。

毎度毎度、兄の仕送りを、

ゆるりと使い切ってしまう母が悪いのだ。

ちょっとは学習すればいいのに、

わずかな汚れを大騒ぎして、

すぐに買い替える母が悪いのだ。

食器も、タオルも、下着も、シーツも、床マットも。

うちではなぜか使い捨てのごとく、

毎度毎度、新品になってしまう。

だから、母が悪いのだ」

 

二階でひたすら母への悪態を心で呟いて、

なんとか自分を正当化しようとする。

それで自分の気分が晴れると信じているから、

何度も何度も不毛なセリフを吐き続けるのだ。

しかし、一方で、

それが無意味なことも分かっているのだ。

いくら言っても、79歳はもう変わらない。

それは、いやというほど、分かってもいるのだ。

情けない。

50歳代の娘が、79歳のご老人を責めてどうする?

えんえんとつづくアリ地獄のような気分を引きずって、

恨めしい表情で時間が過ぎるのを待っていた。

いつもの帰宅時間の、14時半になったら、

速攻で帰宅しようと思っていた。

 

「もう、お昼ご飯は食べない」

そう決めて、一人ストライキをしていると、

窓の外に雨が降ってきたのが分かった。

それも、ちょっとやそっとの雨量ではなさそうだ。

そういえば、今日の天気予報は雨だった。

 

山の学校に行っている次女が、

午後2時過ぎには下校する予定なのだ。

今日は、それが分かっていながら、

無理を押してきた実家だったのだ。

次女にも事情を説明して、

協力を仰いでの、今日の実家通いだったのだ。

 

それなのに。

ケアマネさんをはさんで、母と30分以上もの口げんか。

二階に上がってからは、一人で母への愚痴のオンパレード。

そして今、窓の外は、雨脚が激しくなりそうな曇天。

まだ12時台であり、いつもの時間にはまだまだある。

しかし。

 

「もう、帰ろう」

そう決心して、母に告げた。

「もう帰るわ。サヨナラ」

介護ベットの母は、背中を向けたまま、

「ああ、うん」

とだけ、力なく言った。

いつものように庭先に出て見送ることはなかった。

 

疲れさせたのか。

傷つけたのか。

その両方か。

いずれにせよ、いつもと違う母の様子に、

申し訳なさが胸に押し寄せる。

今すぐ走って行って、

悪かったと言えば、

許してもらえるだろうか。

しかし足は一向に止まらない。

バス停へと一直線に向かっているのだ。

 

介護の事で、兄と衝突することはよくあることだ。

たまには、母にも強く言うことはある。

しかし今回のように、介護ベットの背中越しのサヨナラは、

いままでほとんどなかったように思う。

さすがに、こたえた。

 

後日、用事があり電話して、そのついでに、

「あんまり、お金を無駄遣いしては駄目だよ。

シーツとか、バンバン買い替えるばかりじゃだめだよ」

と、また言ってしまった。

すると母は気を悪くして、最後は無言となり、

途中で電話を切った。

 

その数日後、またも電話したい用件ができて、

電話をした。

先日、母から電話を切られたことなど、

おかまいなしだ。

しかし。

さすがに母も私のお説教に嫌気がさして、

「来週の金曜日は来なくていいよ」

と言ってきた。

娘の遠慮のない物言いに、

ほとほと嫌気がさしたに違いない。

しかし、私も譲らない。

 

「祝日だから、○○(次女)と行くよ。

金曜日は行くって決めているから」

ほかの選択肢はないぞとばかりに、

きっぱりと私がそういうと、

しばらくして、

「分かった」

と母が折れた。

やや根負けの感があるが、

この際多少の事は気にしない。

私の勝利。

孫を連れての訪問は、

やはり邪険にはできないのだと悟った。

 

嫌な顔をされても、

迷惑がられても。

それが本心なのかどうかは、

他人には分からないのだ。

その真偽のほどを見極めることが出来るのは、

やはり、親子なればこそ。

 

たまには外すこともあるが、大抵は、

いやよいやよも、好きのうち、

という昔のフレーズのように、

強がっているという事が、

わかるものなのだ。

目に見えない力。

それが親子というものだ。

 

「毎週、金曜日は実家に行く。ただし暴風波浪警報をのぞく」

 

どんなに他の用事が入りそうになっても、

金曜日は確保しておく。

どんなに魅力的なお誘いがあっても、

誘惑に負けずお断りをする。

どんなことがあっても、

母の期待を裏切らない。

もうすぐ80歳の母を、

私はどうしても手放すことができない。

そういうことなのだ。

 

そのくらいの気概があればこそ、

「親子の絆」と呼べるのだ。

そのくらいの気概がなければ、

「知り合いの絆」くらいなのだ。

 

暑苦しいおせっかいだと言われようと、

私は勝手に一人で決めている。

 

【エッセイ】ウインドウショッピング

いつもの実家の帰り道。

バスを降りてふと、

「駅の地下に行ってみようか」

と思い立った。

 

通常は、

バスを降りても、

通常はJRと自転車で、

まだまだ長い帰宅の途を思い、

寄り道しようなどとは思わないのである。

まっすぐJRの駅まで歩き、

さっさと子供の待つ自宅へと向かうのである。

 

それでも駅地下に行こうかと思ったのは、

なぜなのか、

自分でも良く分からなかった。

ただ、ふと、そんなことを考えてしまったのだ。

 

もしかしたら、母が上機嫌で、

「ヘルパーさんがいろいろしてくれて助かる」

と教えてくれたからだろうか。

私の肩の荷が下りたようで、

少し気持ちに余裕が出来たからだろうか。

とにかく、いつもは行かない場所を、

見てみたくなったのだ。

 

何年ぶりなのか分からないほど、

久しぶりに駅の地下街に入った。

数えきれないほど見てきた風景のはずなのに、

すべてが輝いて見えた。

行き交う人も、そこにあるお店も、

何もかもがキラキラとして、

私には眩しすぎるくらい、

輝いて見えたのだ。

 

「ああ、こんな場所があったのだった」

当の昔の事のようにそう感じて、

自分がよそ者のように思えた。

こんなきらびやかなところに、

到底似つかわしくないと思った。

足早に立ち去ろう、

今の自分の来る場所じゃない、

そう思って帰ろうと思うも、

足はそちらに向かってはくれない。

 

「一周だけ見て、帰ろう」

そう自分に納得させて、

洋服のお店を見て回った。

マネキンの来ているものも、

ハンガーにかかっているものも、

どれもがイマドキの色やスタイルであった。

一つとして、ベーシックな物などない。

 

「流行発信の場所とはこういうもの」

だったことを、

うっすらと思い出す。

数年後には流行遅れになるとしても、

今しかない時間を謳歌する、

とでも決めているかのように、

次々と新しいものを求めていた

過去の自分を思い出す。

 

「ああ、そうだったなあ」

恥ずかしいような、

誇らしいような、

そんな複雑な心境で、

くるくると流行発信を見て回ったのだ。

 

ほんの十数分のウインドウショッピングだったように思う。

それでも気分は十分、晴れやかだった。

こんな風に、自分の境遇を忘れて洋服を見て回ることなど、

しばらくなかったように思う。

 

もちろん、ユニクロだとか、シマムラだとか、イオンだとか、

洋服を見ることはある。

たまには買うことだってあった。

しかし、駅の地下街の洋服屋は別格なのである。

手触りの良い高級な生地、

ひと目見て美しいと思う色味、

今はこれが流行なのだろうと思わせる目新しい形。

どれもが洗練されていて、

とうてい、今の自分の、

専業主婦のお財布では手が出ない、

そんな洋服が並ぶ場所なのだ。

 

一通り、見終わった後、

JRの駅に向かった。

気分は高揚していた。

今まで見てきたものが夢なのではないかと、

改札をくぐる時には、そう感じていた。

それほど、非日常の空間であった。

 

「また来たい」

そう思った。

「こんな洋服を、試着出来たら素敵だろうな」

そう思った。

でも、今は。

その可能性は極めて低い。

 

なぜなら、専業主婦であり、

二人娘の母であり、

洋服よりも大切なものがたくさんあるから。

洋服を買うという気分転換よりも、

もっともっと気分転換になるものが、

今の私にはあるから。

でもきっとそれは、

「いつでも、帰る。いつでも、着れる」

そう思っているからかもしれない。

 

そして。

ふと。

実家の母の洗濯物を干している時のことを思い出した。

質素な肌着と靴下。

私が買ってあげた、きれいな色の洋服2枚。

そして母が買った、薄手の安価な洋服4枚。

 

足の弱くなった母は、おそらく、

一人で買い物に行き、

洋服を買うことなど出来ないだろう。

駅地下のファッションのお店にあるような、

きらびやかな洋服を自分で選ぶことなど、

考えもしないだろう。

 

でも。

今はまだ、自分の好きな洋服を着たい、

という気持ちが母にあるなら、

着てほしいなと思ったのだ。

母が一人で買いに来れないのなら、

私が手伝って、一緒にお買い物に行って、

洋服を選びたいなと思ったのだ。

 

駅地下には行けないにしても、

実家近くの中規模ショッピングモールに行き、

一緒に洋服を選ぶことはできる。

 

「まだ、79歳だもの。

好きな洋服を選んだっていいじゃない。

きっと気持ちが上むくよ。

遠慮ばっかりしていないで、

一緒に買いに行きましょうよ」

 

もう少し、実家の父の様子が落ち着いたら、

出来れば近いうちに、

一緒に買いに行きたいと思う。

 

「親孝行、したい時に親は無し」は、

いやなのである。