冬菜かしこの「のんびり ゆっくり 親孝行」の日々

70歳代後半の親と50歳代前半の娘のゆるい介護のような親孝行の記録です

【エッセイ】くまちゃん椅子とサランラップの芯

先日の実家に帰省した際のことである。

 

泊りがけなので、ついでに、

家の中の不要物を捨ててしまおうと、

ゴミ袋を手に、家じゅうを見て回っていた。

 

床に落ちたティッシュやら、

インクのでないサインペンやら、

お菓子のあき袋やら。

なんだかんだで、

色々とゴミらしきものを拾い集めていった。

 

普段から、きちんとごみを廃棄しておけば、

こんな苦労はしないのにと、

誰に言うともなく心の中でつぶやきながら。

それが出来ないのが、

老々介護なのだなと、

ある種のあきらめにも似た気持ちで、

せっせとごみ集めに精を出した。

 

気が付けば2つくらいのごみ袋が出来上がり、

勢いがついたついでに、

もう少し集めていこうと張り切っていった。

そこで目についたものは、

脱衣所に置いてある、プラスティックの椅子。

 

 

うちの二人娘が実家に泊まりに来た時に、

机が少し高いからと、

100均で買った安いクマちゃんの椅子。

多分、風呂場用なのだろう。

簡素な作りで、装飾も何もない。

今はもう色あせて、元の茶色が分からないくらい

古くなってしまった椅子。

 

速攻でゴミ袋に入れようとして、

ふと、「一応、聞いておくか」

と母に捨ててもいいか聞いてみると、

「それ、使うから、置いておいて」

とのこと。

「台所の高いもの摂る時の台にしてるんよ」

とのこと。

ああ、そうなんですね。

うーん。

ホントに?

使っているところ、見たことないけどな。

 

そう思いつつ、仕方なく元に戻した。

母が、そういうものだから。

家主の意見を尊重するのは、

致し方のないこと。

それが、私には不要に見えたとしても。

母がそういうならば、多分、

「残す」

が正解なのだろう。

 

ひとまず、くまちゃん椅子はあきらめて、

次に目を付けたのは、

今はもうあまり使わない、

うちの二人娘が幼児期に使っていた、

プラスティックの茶碗とランチプレートコップ。

それぞれ、2組ずつ。

 

全く使っていないわけでもないので、

ちょっと悩ましいなと思い、

まずは同じ場所に置いている、

サランラップの芯2本を、

ゴミ袋に入れることにした。

さすがにこれは、

母に聞くまでもないと思った。

何と言っても、サランラップの芯、なのだから。

迷うことなく、ゴミと認定させていただいた。

 

 

そして、2階に上がり、

物が溜まっている廊下に行くと、

あちこちに、不要だと思われるものが

積み上げられていた。

そして、なぜかその中に、

またもや、サランラップの芯があった。

また?

なんで?

 

 

そう思っていると、

また別の所にも、

サランラップの芯が出てきた。

また、また?

なんで、なんで?

 

 

そうして、やっと気が付いた。

サランラップの芯がおいてあるのは、

全て子供用品の中。

つまり、子供の食器や、子供のおもちゃの中に、

置いてあるということ。

 

これは、たまたまここに置いてあるのではなくて、

わざわざ、ここに置いてある、

もっと言えば、ここに集めている、

と言うことなのだ。

 

きっと母は、こう思って集めたのだろう。

「孫が来た時のために、工作に使える、

サランラップの芯を集めて置いてあげよう」と。

 

このことに気づいたからと言って、

母に確認はとってはいない。

それはめんどくさいとかではなくて、

きっと、正解なのだと思うから。

いつも、いつも、

孫の事を思ってくれている、

優しい母だから、

そういう考えをするだろうと、

確信に近いものを感じるから。

 

なにもかもを合理的に、

ぶった切っていくやり方は、

たぶん、母には向かないのだろう。

ひとつ、ひとつ、丁寧に、

向き合っていきたいのだろう。

「これ、捨ててもいい?」

と聞いても、なかなか未練が断ちきれないのが、

母の優柔不断な所でもあり、

情が深いところでもあるのだ。

 

良く言えば、物を大事にする。

悪く言えば、物をため込む。

どんなことも、捉え方次第で、

良くも悪くもなるのだろう。

でも母の優しさをそのまま持っていてもらうには、

その両面を抱えてあげることが

大切なことのように思うのだ。

 

いつだったか。

家の中のものを整理していた時のこと。

それは私や兄が小学生の時、

毎年飾っていた、電飾付きのクリスマスツリー。

昔のものなので、今のように大きいものではなくて、

おそらく50CMほどの、

小さなクリスマスツリー。

 

もう使わないだろうからと、

廃棄しようと私が言った時、

母は全力で言ったのだ。

「これは、だめ!!」

 

いつもは穏やかな母なのだ。

でもこの時ばかりは、強い口調で、

私を制止することを口にした。

それはきっぱりと、

廃棄はしないという、

確固たる意志を見せた、

母にしては珍しい強い姿だった。

 

今にして思えば、

それは「幸せの象徴」だったのだろう。

もう二度と、決して戻らない、

若き日の母の楽しい、

楽しすぎる思い出だったのだろう。

 

それを廃棄したからと言って、

思い出がなくなるわけではない。

そうは分かっていてもなお、

それはどうしても、手放せなかったのだろう。

今ならば母の気持ちが、

少し分かる気がする。

二人の娘を持つ母となった私ならば、

少しだけ、共感できるところがあるのだ。

 

母の集めたサランラップの芯をそのままにして、

ごみ集めは終了した。

そして、ふと、脱衣所の横を通った時、

思った。

 

くまちゃんの椅子。

 

もしかしたら、もう、使っていないのかもしれない、と。

踏み台にしているというのは、単なる後付けの理由かもしれない、と。

本当は、二人の孫の思い出の品を残しておきたいのかもしれない、と。

 

今となっては、もう、真実がどれかなど、

どうでもいいなと思うのだ。

使い勝手がいいから、椅子を置いているのか。

思い出の品だから、捨てたくないのか。

 

どちらにせよ、母がそれを残したいのなら、

そうしてあげるだけなのだ。

それが正しいことだと思うのである。

 

いつだって、人の心は分からない。

でもそれでいいのだ。

だからこそ、人付き合いは、面白いのだ。

友達であれ、

親子であれ。

楽しいものなのだ。