父が認知症専門病院に入院して、
もうすぐ2か月になる。
そろそろ、入院生活による弊害が心配される時期になる。
つまり、足腰が弱くなり、家族を忘れ、
色々なことが出来なくなる、
そういう目安の時期が来ている、ということ。
本当はもっと早く、
できれば入院してすぐ、退院先を探し始めれば良かったのだろう。
しかし、母の手術やら、私がバイトを始めたり、長女が中学に入学したりと、
あまりにも忙しくて、父の老人ホームの事を後回しにしてしまっていた。
そして、父が入院してから、実家に行って、
父の世話をしなくてよくなった気楽さもあり、
少し自宅で息抜きをしたくなったのもある。
要するに、しばらく介護の事から離れたかったのである。
それでも入院から2か月がたち、
そろそろと重い腰を上げて、
実家に行き、母と話をして、
近所の老人ホームに見学に行った。
前々から気になっていた、極近所の老人ホーム。
出来ればそこを、父の終の棲家にできればと思っていた。
しかし、結果は良くなかった。
2か月前に電話した時に空室3室あったものが、
現在は空室1室で、それももう決まりそうとのことだった。
仕方なくあきらめて、同じグループの別の老人ホームを紹介されたので、
そこに行ってみた。
結果として、とても設備が良かった。
雰囲気もとても良かった。
職員さんも親切そうだった。
ただし、費用は1万円ほど高くなり、
予算よりオーバーしてしまう。
そこまでの長生きは難しいかもしれない」との職員さんの言葉に
ハッとさせられた。
父の長生きを願うけれど、健康な高齢者と同じだけ生きられるかは、
分からないなと思った。
それならば、最後は楽しく暮らさせてあげたい。
今まで人一倍働いてきた父だから、
最後はゆっくり休ませてあげたい。
少しぐらいの予算オーバーは、
良いのではないかと思えてくる。
こんな風に、老人ホームを一所懸命さがしても、
いつか父は私を忘れるのだろう。
今までの思い出を、すっかり忘れてしまうのだろう。
それでも、最近は、まあいいかと思えてくる。
私は忘れない。
それでいいのだと思えてくるのである。
何もかもが変わらずにいることなど、
人生にはないのだから。
流れる川の水のように、
すべてはいつも変わっていっている。
それでいいのだ。
それを受け入れてこその人生だと、
悟った人のようなことを思う、
今日この頃の私なのである。