冬菜かしこの「のんびり ゆっくり 親孝行」の日々

70歳代後半の親と50歳代前半の娘のゆるい介護のような親孝行の記録です

【エッセイ】お正月の帰省、その2

さて、今年のお正月帰省の本題。

 

娘の体調不良により大晦日の帰省が一日延びて、

隣の市の実家帰省は、1月1日のお正月になった。

電車とバスを乗り継いで、片道2時間の長い道のり、

一人ならまだしも、小学生二人を連れては、

やはり少々手間がかかった。

 

実家に着いて居間に入ると、

そこには年内にすでに帰省していた兄がいて、

「おー、来たかー」とのんきな声をかけてきた。

二人娘は久しぶりの私の実家で、

楽しそうにしていた。

私はどうしても仏頂面になり、

挨拶もそこそこに二階の元自分の部屋にこもることにした。

 

「全然役に立っていない」と言われた、

去年の私の実家帰省。

母も兄もおどけたように言って笑っていたが、

私はどうしてもその言葉はとげのように引っかかって、

いつまでたっても抜くことが出来ないでいた。

 

二階にこもり、テレビをつけると「孤独のグルメ」の一挙放送をしていたので、

しばらくこれで退屈しないで済む、と何とはなしに見始めた。

そのうち「おやつよー」の声がかかり、

それでもずっとテレビを観ていると、

小5の長女が紅茶とお菓子を持ってきてくれた。

「下に降りてきたら?」と言われたが、

どうしてもその気分になれず、

大人げないとは思いながらも、

「ここで食べる」と言い切ってしまった。

 

結局、長女は一人で階段を下りて居間に行ったようだ。

階下ではみんなの笑い声が聞こえてきた。

私は一人で「孤独のグルメ」を見ながら「孤独なおやつ」

を食べていた。

「孤独に食べる、のも悪くないよ」と思いつつ、

早く時間が過ぎてくれないかなーと、思っていた。

 

夕食時になると、さすがに居間に行かなくてはならず、

仕方なく階段を下りていった。

居間には兄の買ってきてくれた握り寿司が置いてあり、

また兄のおごりだと思うと気が重くなった。

 

兄の経済力には勝てない。

だからせめて一週間に一回は、実家に帰省して家事手伝いをしていたのに。

私なりに精一杯の親孝行だと思ってやっていたのに。

それを母と兄に一笑に付されて、どうにもこうにも気持ちの持って行き場が

なくなっていたのだ。

 

気が付くと、頬に涙が伝っていた。

でもそれを見られるのが嫌で、

誰にも分からないように指でぬぐって、

気づかれないようにした。

おそらく、誰にも見えていないと、

涙をぬぐい切った私は思っていた。

 

でも。

自室から居間に現れた父に、

いつものように握手をしてあげていると、

「○○(私の名前)が一番いい!」と喜んだあとで、

心配そうに私の顔を覗き込み、

「なに、泣いてるん?」

と聞いてきた。

 

えっ?

涙は上手に完璧に脱ぎ切って、

すでに頬は乾いているはずなのに。

どうして分かったのだろう?

父の言ったひとことを、聞こえなかったことにして、

再び握手をして、ごまかした。

 

認知症、恐るべし。

時々こうして、まるですべてをお見通しのような、

まるですべてを達観しているようなことを言ったり、したりする父。

ほんとうに。

認知症、おそるべし、だな。

 

それでも私はうれしくて、

ちょっと心が慰められたのだ。

幼児期に丸ごとの愛を表現してくれた父。

やはり、父なんだね。

 

そうはいっても、二階への引きこもりはかわらず、

結局その後もずっと引きこもり、翌日の兄の帰宅まで、

私は二階にこもったっきり、

長女がえいこらとおやつやら朝ごはんやらを運んでくれた。

すみません。

 

兄が実家から帰った後は、

体の不自由な母に家事を任せるわけにはいかず、

仕方なく階下に降りていった。

多分私は、母よりも兄に対して怒っていたのだろう。

子供のいない兄夫婦が、

育児も介護もしないで、のんきに暮らして、

私一人が育児も介護(家事手伝い)もしていることに、

不公平感を感じていたのだろう。

 

母と一緒にご飯を運んだり、お皿を運んだりしているうちに、

どうしてもストレスが満タンになり、

結果、母にすべての気持ちを吐き出していた。

「せっかく頑張って、一年以上も実家に通っているのに、

意味がないなんて言わないでほしい!

それならもう来ない!

こっちの気持ちも考えてほしい!」と。

 

母としては心外だったようで、

「意味がない、とでも言わないと、無理して実家に来るから。

申し訳ないと思って、わざと冷たい言い方をしたんよ。

意味ないことはないよ。助かっているよ」

と自分の気持ちを言ってくれた。

 

それでも。

どうしても納得がいかないので、

「それなら、無理してこなくていいよ、と言って!

分かりにくい言い方しないで!」

と畳みかけると、

「そうでした。ごめんね」

と言ってくれた。

 

胸の中のものを吐き出すと、

思った以上に、すーっとして、

ようやく気持ちが落ち着いてきた。

これでようやくまた母と話が出来ると思った。

やれやれ。

意地っ張りを通りのも疲れるなと、そう思った。

 

1月4日は実家近くの中型ショッピングモールで、

母と私達3人でお昼をいただいた。

朝ごはんが遅かったので、あまり食べられなかったが、

いつものフードコートで「たこ焼きランチ」なるものをいただき、

タコ焼き、ポテト、ジュースで軽くお昼とした。

 

その後、母と私は椅子でのんびり、二人娘はガチャコーナーで遊び、

娘が戻ると母が食料品コーナーへ、それが終わると合流して、

一緒に帰宅した。

 

帰り際に母が、「駅まで遠いから」とタクシー代をくれ、

久しぶりにバスではなくタクシーで駅まで行き、

帰宅の途についた。

一応母とは仲直りっぽくはなったが、

私の中で、何かが変わったように思った。

 

たぶん、それは実家と自分とのかかわりかた。

今までのように「必死に、長生きをサポートする」というものから、

「出来る範囲で、ほどほどに長生きを願う」というように変わったように思う。

がむしゃらに頑張ったところで、

相手にそれを恩着せがましく言ってしまっては、

相手もそれはしんどいだろうと思い始めた。

そして自分自身も、相手の事を必死に頑張ってサポートをすることに、

少々疲れてきたのもあるのだと思う。

昨年は腰痛で入院もしているし、

いつまでも若者のようには介護は出来ないのだろうと思う。

 

できれば両親が今のままで、100歳くらいまで長生きしてくれたらいいなと

それは本当にそう思うのだ。

でもそれは、私ががむしゃらに頑張って達成するものではないと

今はそう思っているのだ。

 

気が付いたら100歳達成。

そのくらいでいいのではないかと思っている。

自分自身も二人の娘に過度な期待はしていないし。

そんな感じでいいのかなと思い始めている。

 

「ケ・セラ・セラ」

たしか、なるようになる、なるようになれ、

そんな意味だったと思う。

私の大好きな言葉。

これからも、肩の力を抜いて、

ぼちぼちと、やっていこうと思っている。