さて、今年のお正月帰省の本題。
娘の体調不良により大晦日の帰省が一日延びて、
隣の市の実家帰省は、1月1日のお正月になった。
電車とバスを乗り継いで、片道2時間の長い道のり、
一人ならまだしも、小学生二人を連れては、
やはり少々手間がかかった。
実家に着いて居間に入ると、
そこには年内にすでに帰省していた兄がいて、
「おー、来たかー」とのんきな声をかけてきた。
二人娘は久しぶりの私の実家で、
楽しそうにしていた。
私はどうしても仏頂面になり、
挨拶もそこそこに二階の元自分の部屋にこもることにした。
「全然役に立っていない」と言われた、
去年の私の実家帰省。
母も兄もおどけたように言って笑っていたが、
私はどうしてもその言葉はとげのように引っかかって、
いつまでたっても抜くことが出来ないでいた。
二階にこもり、テレビをつけると「孤独のグルメ」の一挙放送をしていたので、
しばらくこれで退屈しないで済む、と何とはなしに見始めた。
そのうち「おやつよー」の声がかかり、
それでもずっとテレビを観ていると、
小5の長女が紅茶とお菓子を持ってきてくれた。
「下に降りてきたら?」と言われたが、
どうしてもその気分になれず、
大人げないとは思いながらも、
「ここで食べる」と言い切ってしまった。
結局、長女は一人で階段を下りて居間に行ったようだ。
階下ではみんなの笑い声が聞こえてきた。
私は一人で「孤独のグルメ」を見ながら「孤独なおやつ」
を食べていた。
「孤独に食べる、のも悪くないよ」と思いつつ、
早く時間が過ぎてくれないかなーと、思っていた。
夕食時になると、さすがに居間に行かなくてはならず、
仕方なく階段を下りていった。
居間には兄の買ってきてくれた握り寿司が置いてあり、
また兄のおごりだと思うと気が重くなった。
兄の経済力には勝てない。
だからせめて一週間に一回は、実家に帰省して家事手伝いをしていたのに。
私なりに精一杯の親孝行だと思ってやっていたのに。
それを母と兄に一笑に付されて、どうにもこうにも気持ちの持って行き場が
なくなっていたのだ。
気が付くと、頬に涙が伝っていた。
でもそれを見られるのが嫌で、
誰にも分からないように指でぬぐって、
気づかれないようにした。
おそらく、誰にも見えていないと、
涙をぬぐい切った私は思っていた。
でも。
自室から居間に現れた父に、
いつものように握手をしてあげていると、
「○○(私の名前)が一番いい!」と喜んだあとで、
心配そうに私の顔を覗き込み、
「なに、泣いてるん?」
と聞いてきた。
えっ?
涙は上手に完璧に脱ぎ切って、
すでに頬は乾いているはずなのに。
どうして分かったのだろう?
父の言ったひとことを、聞こえなかったことにして、
再び握手をして、ごまかした。
認知症、恐るべし。
時々こうして、まるですべてをお見通しのような、
まるですべてを達観しているようなことを言ったり、したりする父。
ほんとうに。
認知症、おそるべし、だな。
それでも私はうれしくて、
ちょっと心が慰められたのだ。
幼児期に丸ごとの愛を表現してくれた父。
やはり、父なんだね。
そうはいっても、二階への引きこもりはかわらず、
結局その後もずっと引きこもり、翌日の兄の帰宅まで、
私は二階にこもったっきり、
長女がえいこらとおやつやら朝ごはんやらを運んでくれた。
すみません。
兄が実家から帰った後は、
体の不自由な母に家事を任せるわけにはいかず、
仕方なく階下に降りていった。
多分私は、母よりも兄に対して怒っていたのだろう。
子供のいない兄夫婦が、
育児も介護もしないで、のんきに暮らして、
私一人が育児も介護(家事手伝い)もしていることに、
不公平感を感じていたのだろう。
母と一緒にご飯を運んだり、お皿を運んだりしているうちに、
どうしてもストレスが満タンになり、
結果、母にすべての気持ちを吐き出していた。
「せっかく頑張って、一年以上も実家に通っているのに、
意味がないなんて言わないでほしい!
それならもう来ない!
こっちの気持ちも考えてほしい!」と。
母としては心外だったようで、
「意味がない、とでも言わないと、無理して実家に来るから。
申し訳ないと思って、わざと冷たい言い方をしたんよ。
意味ないことはないよ。助かっているよ」
と自分の気持ちを言ってくれた。
それでも。
どうしても納得がいかないので、
「それなら、無理してこなくていいよ、と言って!
分かりにくい言い方しないで!」
と畳みかけると、
「そうでした。ごめんね」
と言ってくれた。
胸の中のものを吐き出すと、
思った以上に、すーっとして、
ようやく気持ちが落ち着いてきた。
これでようやくまた母と話が出来ると思った。
やれやれ。
意地っ張りを通りのも疲れるなと、そう思った。
1月4日は実家近くの中型ショッピングモールで、
母と私達3人でお昼をいただいた。
朝ごはんが遅かったので、あまり食べられなかったが、
いつものフードコートで「たこ焼きランチ」なるものをいただき、
タコ焼き、ポテト、ジュースで軽くお昼とした。
その後、母と私は椅子でのんびり、二人娘はガチャコーナーで遊び、
娘が戻ると母が食料品コーナーへ、それが終わると合流して、
一緒に帰宅した。
帰り際に母が、「駅まで遠いから」とタクシー代をくれ、
久しぶりにバスではなくタクシーで駅まで行き、
帰宅の途についた。
一応母とは仲直りっぽくはなったが、
私の中で、何かが変わったように思った。
たぶん、それは実家と自分とのかかわりかた。
今までのように「必死に、長生きをサポートする」というものから、
「出来る範囲で、ほどほどに長生きを願う」というように変わったように思う。
がむしゃらに頑張ったところで、
相手にそれを恩着せがましく言ってしまっては、
相手もそれはしんどいだろうと思い始めた。
そして自分自身も、相手の事を必死に頑張ってサポートをすることに、
少々疲れてきたのもあるのだと思う。
昨年は腰痛で入院もしているし、
いつまでも若者のようには介護は出来ないのだろうと思う。
できれば両親が今のままで、100歳くらいまで長生きしてくれたらいいなと
それは本当にそう思うのだ。
でもそれは、私ががむしゃらに頑張って達成するものではないと
今はそう思っているのだ。
気が付いたら100歳達成。
そのくらいでいいのではないかと思っている。
自分自身も二人の娘に過度な期待はしていないし。
そんな感じでいいのかなと思い始めている。
「ケ・セラ・セラ」
たしか、なるようになる、なるようになれ、
そんな意味だったと思う。
私の大好きな言葉。
これからも、肩の力を抜いて、
ぼちぼちと、やっていこうと思っている。