冬菜かしこの「のんびり ゆっくり 親孝行」の日々

70歳代後半の親と50歳代前半の娘のゆるい介護のような親孝行の記録です

【エッセイ】祖母、100歳の大往生

今週の月曜日の夜。

実家の母からの電話で、祖母の訃報を知った。

ごはんが食べられなくなり、

病院に入院していることは聞いていたが、

もう少し生きてくれるものと思っていたのだが。

思いのほか早い、お別れだった。

 

先の日曜日に、母と会った時に、

「おばあちゃんが入院していて、

延命治療をするかどうか、○○ちゃん(叔母)に聞かれたんよ。

もう年も年だから、延命治療はしないことにしたんよ」

と聞かされていた。

「延命治療の話が出るということは、

そこまで体調が悪いということだろう」

と思ってはいたのだが、

そのうち、そのうち、

と思っていたので、

こんなに急にお別れすることになり、

やはり、突然すぎる、と言う気持ちになった。

 

祖母は大正12年の生まれだ。

昔は結婚が早かったので、

祖母も20歳の時に結婚した。

最初は娘、次に息子と、

子宝にも恵まれた。

夫は村一番の二枚目だったそうで、

おそらく、祖母はまんざらでもなかったのではないだろうか。

 

それでも、夫が戦争中に病気を患ってしまい、

戦後も病に臥せっていたので、働けず、

生活費は老夫婦と祖母がなんとかしないといけない状況

だったそう。

夫の病気の治療のために薬代や病院代、

お金がどんどん掛かっていった。

働き手のいない老夫婦と未亡人の家庭で、

生活はどんどん苦しくなっていったそうだ。

そうして娘が5歳のころ、

夫はあまりにも若くして亡くなってしまったそうだ。

 

祖母は3人兄弟の真ん中で、

わりと人に合わせる性格の人。

だから兄弟仲は良く、

その性格から、

姑さん夫婦からも、

「○○(祖母の夫)さんは亡くなったけど、一緒に暮らそう」

と言っていただいて、

同居することになったそうだ。

 

小さい娘と息子をかかえ、

姑さん夫婦と同居し、

勤めにも出て、田んぼもして、畑仕事もして。

本当によく働いていたそうだ。

「未亡人魂」とでもいうように、

たいした愚痴も言わず、

祖母はしっかりと地に足を付けて、

生きていったそうだ。

 

そうした祖母の様子を見ていたから、

祖母の息子(私の叔父)は、結婚する時に、

「お母さんの面倒だけみていてくれたらいいから」

とのお願いをしたそうだ。

そしてその願い通りに、専業主婦として、

家庭内のことをしっかりとしてくれたようだった。

50年近く、祖母の生活全般、

老いては介護まですべてを、

一手に引き受けてくれていた。

 

「○○ちゃん(叔母)の料理がおいしいから」

と言って、祖母はいつもニコニコしていました。

どんな家庭にも、多少のさざなみはあろうと思う。

けれど今思い出すのは、

叔母の作った料理をおいしそうに食べる祖母と、

100歳の祖母の食事の量を気にする叔母の、

お互いがお互いを思いやる姿なのだ。

祖母がこんなに長生きできたのは、

叔母の功績失くしてはないのだ。

 

祖母の訃報で、祖母宅に駆け付けた時、

祖母の生前の部屋を見せてもらった。

叔母が「棺桶に入れるものを考えている」

と言っていて、

「洋服を入れようと思うの。

でもどれも地味な服ばかりなのよ」

と教えてくれた。

 

そういえば祖母の服は、

とても地味なものが多かったように思う。

記憶の中の祖母の服は、

かすんだ薄紫や、紺色や、灰色。

決して心が浮き立つようなパステルは好まず、

落ち着いた色味ばかりだった。

それが生来の好みなのか、

戦争体験者としての気持ちを反映してなのか、

それは分からないが、

とにかく地味一辺倒だった祖母だった。

結局、かすんだ薄紫の服を、

「よく着ていたから」

と言って、叔母が選んでくれていた。

 

「◇◇ちゃん(私の名前)、早くに結婚しなくていいよ。

苦労するばっかりだからね」

祖母はよくそう言ってくれていた。

そのためかどうか、

私は40歳での結婚となった。

でも夫を連れて祖母宅を訪ねた時、

ウエディングドレスを見せると、

「いい時代に生まれていいねえ。こんなきれいな服を着れて」

とうらやましそうに笑ってくれていた。

私は祖母のように若くして結婚した人がうらやましいけれど、

祖母は祖母で、私の事をうらやましく思う。

人とは自分にないものをうらやましく思うのだと、

難しいものだなと思ったりもした。

 

今回の訃報について。

1日目は、亡くなってすぐの祖母を見に、

葬祭ホールにかけつけて、

祖母の顔を見た。

2日目は、通夜でお経を聴いて、

遺影の中の少し若い祖母の顔を見て、

いろいろと思い出した。

3日目は、葬儀で最後のお別れをし、

棺桶にお花を入れていった。

棺を閉じる前に、

用意された美しい「花束」を入れるのだが、

叔母はその役に私を指名してくれて、

私がそっと花束をたむけた。

 

これで、最後なのだと、

心に言い聞かせて。

おだやかな、目を閉じた顔を見ながら、

もう私の名前を呼んではくれないのだと、

心に言い聞かせて。

自分の中で、祖母の思い出を、

胸に閉じ込めた。

 

もう祖母との、新しい思い出は増えない。

どんなに望んでも、

あたたかいその手を握ることはできない。

にぎやかなコーヒータイムも、楽しいお喋りも、

畑に行って、一緒にとうもろこしをもいでくることも、

もう出来ないのだ。

黄色いスイカを切って、みんなで縁側でかぶりつくことも、

蚊帳をつって、なかではしゃぎながら寝ることも、

もう出来ないのだ。

もう二度と、もう二度と、

思い出が増えることはなくなってしまったのだ。

 

ああ。

もう会えないのだなあと。

そう思うと悲しいから。

またいつか、

またいつか、そっちに行った時に、

一緒に畑に行こうと、

そう思うことにしたのだ。

 

今までありがとう。

言葉にならないほどのたくさんの愛情を、

惜しみないほどのたくさんの優しさを、

ありがとう。

もう形あるお返しは出来ないから、

せめて心で感謝のことばを。

 

100歳まで長生きして良かったね。

大往生だね。

私の大好きなおばあちゃん。

ずっとずっと忘れないよ。

 

そんな風に、思っている。