冬菜かしこの「のんびり ゆっくり 親孝行」の日々

70歳代後半の親と50歳代前半の娘のゆるい介護のような親孝行の記録です

【エッセイ】真夏のセミに思う

先日の新聞での投稿欄で、

セミは7年間、地下で過ごして、

その後1週間ほどしか、地上で生きられない」

とあった。

以前から知っていたこととはいえ、

そのことが頭の中にあるまま、

庭に出た時にセミがみんみんと

にぎやかに鳴いているのが気になった。

「このセミたちも一週間なのか」

としみじみ思ってしまった。

 

その新聞の投稿欄は、

おばあさんがお孫さんのことを書かれていて、

セミが1週間しか生きられない」

と聞いたお孫さんが、

「虫かごからセミを逃がした」

とつづられていた。

その時私は、なにげなく、

そうだよな、1週間だもんな、

地上で思いっきり過ごさせてあげたいよな、

と納得していた。

でも、ふと。

「地上で過ごすことがうれしいって、誰が決めたの?」

とそんな考えが頭の中に浮かんできた。

 

大抵の場合、なにかを考える時に、

自分を基準にして考える。

それはもっともふつうの事で、

自分以外の目線には、

なかなか気づかないからだ。

だけどセミの気持ちになってみれば、

どうだろうかと思う。

 

「住めば都」という言葉があるように、

ずっと住んでいるとその場所は、

自分になじんでいくのではないかと思う。

最初は不便に目が行くとしても、

その対応方法を考えて適応していけば、

今いる場所が一番やりやすい、

となるのではないかと思うのだ。

 

たとえ地下には、日の光が届かなかったとしても。

たとえ地下には、思い切り飛べる空がなかったとしても。

羽が生える前のセミにとっては、

外敵から身を守り、

強い日差しや雨や雪から守ってくれる、

土壌がありがたい存在なのではないかと、

そんな風に思ったりもする。

 

もしも幼虫のまま地上に出されたら、

外敵に捕食されてしまうかもしれない。

あるいは強い日差しに耐えられず、

干からびてしまうかもしれない。

そう思うと、暗い地下はまるで、

身を守るシェルターのようだと、

ふとそんな考えが浮かんできたりする。

 

そして、また。

もしかしたら、だけれど。

地下にいる幼虫がすべて、

地上でセミとなって飛べるわけではないのかもしれない、

とも思った。

幼虫のまま、生涯を閉じてしまうセミだって、

いるのかもしれない。

 

今もまだ、外ではセミがみんみんと鳴き、

ばたたたっと空を飛んでいる。

それがまるで幸せを謳歌しているように見ているのは、

私たちが地上を楽しい場所だと思っているから。

大声で鳴くことが、楽しい事だと思っているから。

けれどもしかしたら、

セミにとってみれば、

「地上に上がるということは、もうすぐサヨナラすること」

だと、悲しく思っているかもしれないのだ。

それを確かめるすべはありません。

ただ、そういう見方もあるのだと、

そんなふうに思ったのだ。

 

今朝の新聞の訃報欄。

「フランスの歴史家 94歳死去」とあり、

美しい白髪の高齢女性の写真があった。

こんなにきれいで、聡明で、長生きされて、

この方の人生は幸せだったのだろうなと、

そんなふうに思ったの。

でもそのすぐ後に、

「94歳まで長生きしなかったら、

幸せではないのだろうか?」

と思ってしまった。

 

義理の両親はともに、昨年、今年、

80歳と85歳で他界した。

でももし、94歳まで長生きしていたら、

もっと幸せだったのだろうか。

94歳まで生きられなかったら、

義理の両親は幸せではないのだろうか?

そう自問自答してみた。

 

そして思った。

そんなことはない、と思うと。

毎日をぼちぼち楽しくできていたなら、

それは間違いなく、幸せな人生だったと言えると思うのだ。

人生は長さじゃなくて、その内容の充実度だと、

自分が納得しているかどうかだと、

そんな風に思ったのだ。

 

義理の両親は世を去る前の1年ほどは、

老人ホームに入っていて、

生活全般をお世話してもらっていたそうだ。

それは快適な環境で、広々として館内で、

優しい職員さんによくしてもらっていたようだ。

けれども。

両親が他界した後で老人ホームに行った際、

職員さんから聞いたことがある。

「○○さん(義母の名前)、いつもこの窓から外を見ていたんですよ。

家に帰りたかったみたいですね」

やさしい口調でそう言ってくれた職員さんんは、

すこし寂しそうに見えた。

お仕事とはいえ、サヨナラすることが前提の交流は、

しんどいだろうなと思った。

そしてまた、そのやさしさに感謝の気持ちを

抱かずにはいられなかった。

 

もう、形のある親孝行はできない。

でも、これからは、義母に教えてもらったことを、

孫である、うちの二人の娘に教えていきたいと思っている。

 

陽の当たる日も、

雨が降る日も、

変わらずたんたんと毎日を生きていくこと。

たくましく生きていくのだということ。

そのことを教えていきたいと思っている。

 

もうすぐお盆がやってくる。

今は亡き義理の両親が、

帰ってくるように思う。

しっかりやっていますよと、

胸を張って言えるように。

これからも毎日をたくましく

生きていきたいと思っている。

 

 

今も外でセミが鳴いている。

飽きることなく、

途切れることなく。

セミが鳴いていている。

何をそんなに訴えたいのだろう。

せめて、今生きているこの地上を、

楽しんでほしいと願っている。